日本の歴史鎌倉時代

ピンチはチャンス!承久の乱の勝利は鎌倉幕府の力を強化した

平安時代の末、平清盛が武士で初めて太政大臣になるなど武士の力が急速に高まっていました。清盛の死後、京都より西の瀬戸内海周辺を地盤とする平氏と関東を地盤とする源頼朝が激突し源平の争乱となりました。この時にできた鎌倉幕府は頼朝の血筋が絶え、大ピンチとなります。これに乗じて後鳥羽上皇が鎌倉幕府を滅ぼそうと画策して起きたのが承久の乱です。承久の乱の背景・経過・影響などについてわかりやすく解説します。

承久の乱の背景

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源頼朝が打ち立てた日本で初めての武家政権である鎌倉幕府。鎌倉幕府の支配は東日本中心であって、西日本はいまだに朝廷の支配下にありました。幕府と朝廷が併存したこの時代、時に協力し、時に対立しながら幕府と朝廷が政治を行っていきます。その微妙なバランスは頼朝の死後に徐々に狂い始めました。幕府の成立から源氏将軍の断絶までをまとめます。

鎌倉幕府の成立

1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした源頼朝は諸国に守護・地頭を設置することを朝廷に認めさせます。当時、頼朝と対立して逃亡中だった弟の源義経を逮捕することが守護・地頭設置の名目でした。

荘園領主や地方を支配する国司たちは守護・地頭の設置に猛反対しました。その理由は、地頭は荘園や国司が支配する公領に乗り込んで兵粮米の取り立てや土地の管理を行おうとしたからです。ゆえに、地頭の設置は頼朝の支配が及ぶ関東や平氏から没収した土地が中心でした。

1192年に後白河法皇が死去すると、頼朝は念願の征夷大将軍に任命され正式に鎌倉幕府を開きます。頼朝は幕府の仕組みを整備。妻政子の実家である北条氏は重要な役職に就きました。のちに北条氏は執権という鎌倉幕府ナンバー2の地位を世襲します。

関東武士を中心とする大きな軍事力を持つ幕府の存在は大きなものであり、朝廷は幕府を無視して政治を行うことはできなくなりました。

公武二元支配

鎌倉幕府が成立したといっても幕府が日本全土を支配したわけではありません。京都には天皇や上皇を頂点とする朝廷の勢力がありました。朝廷は諸国の国司(現代の県知事や県の幹部職)を任命し地方を支配し、税を朝廷に収めていました。

また、朝廷は北面の武士とよばれる独自の軍事力も持っています。将軍・執権を頂点とする鎌倉幕府と天皇・上皇を頂点とする京都の朝廷が同時に存在していたといたのです。

鎌倉幕府の支配領域は現在の新潟県・長野県・静岡県よりも東側が中心でした。朝廷は中部地方から西の地域を支配しています。そうはいっても、東と西にきっぱりと支配領域が分かれていたわけではありません。

東日本にも朝廷に任命された国司がいて、西日本にも幕府が任命した地頭がいるといった感じで朝廷と幕府は複雑に絡み合っていたというべきでしょう。こうした朝廷と幕府が併存して政治を行う体制を公武二元支配と呼びます。

源氏将軍の断絶

朝廷と幕府の絶妙なバランスを維持できた源頼朝は落馬により突然亡くなります。頼朝の死後、将軍職を継いだのが長男の頼家でした。しかし、頼家が若かったことから将軍独裁は停止され、北条氏などの有力御家人の合議で幕府政治を動かすようになります。

これに反発した頼家は舅の比企能員と手を組んで北条氏を打倒しようとしますが失敗。比企氏は滅ぼされ、頼家は伊豆の修善寺に幽閉されます。事件の翌年にあたる1204年、頼家は幽閉先の修善寺で謀殺されました。

頼家の跡を継いだのが弟の実朝です。実朝の関心は政治よりも文化の世界にありました。一流の歌人でもあった実朝は『金槐和歌集』を編集するなど文化人として活躍。朝廷とも良好な関係を築き、父をしのぐ右大臣まで昇進しました。

ところが、実朝は1219年に鎌倉の鶴岡八幡宮で頼家の子の公暁に暗殺されてしまいます。公暁もこの時に殺されたため、頼朝直系の源氏将軍の血筋は途絶えました。幕府執権の北条義時は後鳥羽上皇に皇子の人路を将軍にしてほしいと頼みますが拒否されます。

承久の乱の経緯

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源実朝の死は幕府と朝廷とのバランスが崩れるきっかけになります。朝廷のトップに立つ後鳥羽上皇は軍事力を強化。将軍を失って動揺している鎌倉幕府を滅ぼそうと画策しました。これに対して、頼朝の妻で執権北条義時の姉である北条政子は一世一代の演説で御家人たちを動かします

後鳥羽上皇の武力強化と挙兵

後鳥羽天皇は源平争乱の末期に天皇に即位しました。平氏が安徳天皇を連れて西へ都落ちしたためです。後鳥羽天皇を即位させたのは後白河上皇でした。後白河上皇の死後、後鳥羽天皇は自ら政治を行い親幕府派の九条兼実を退けます。その後、土御門天皇に位を譲って上皇となりました。

後鳥羽上皇は源実朝と友好的な関係を築き公武二元支配を安定化させようとします。その一方、西面の武士を新設するなど軍事力の強化も行いました。また、全国各地に存在する多数の荘園からの収入を使い鳥羽などでの離宮建設、28度にも及ぶ熊野詣などを実行し権威を示します。

頼朝の死後、鎌倉幕府から「皇子の一人を将軍として迎えたい」と希望が上がりましたが、幕府の力を弱めたかった後鳥羽上皇はこの申し出を拒否。朝廷と幕府の関係悪化を招きます。ついに、1221年、後鳥羽上皇は実朝の死によって混乱する幕府を倒すため、執権の北条義時を討伐せよとの院宣(上皇の命令書)出し挙兵しました。

北条政子の演説

日本において、天皇や上皇の命令は強い権威を持ちます。後鳥羽上皇が発した「北条義時を討て」という命令は鎌倉の武士(御家人)たちを動揺させました。動揺した御家人たちを前に初代将軍源頼朝妻だった北条政子が話し始めます。

政子は私の最後の言葉だと思って聞いてほしいと前置きしてから次のことを御家人たちに訴えました。頼朝が幕府をつくってから関東武士の生活水準が上がったこと、京都で無理に働かされることがなくなったこと、これらは全て頼朝様のおかげ。

頼朝様の恩は「山よりも高く海よりも深い」のです。この恩に報いるため、あなた方は京都にいる朝廷方の軍を打ち破って欲しい。もし、朝廷側につきたいというなら私を殺していきなさい。政子の必死の訴えを聞いた御家人たちは涙を流して感動し、朝廷方と戦う決意を示しました。

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