幕末日本の歴史江戸時代

不平等だった「日米修好通商条約」不平等内容を条文から読み解いていく

不平等条約と言われる日米修好通商条約。江戸時代に結ばれたこのアメリカとの条約は、日本にとって不利な内容だったと言われていますね。また、この条約改正のためには、長年の月日を要したとも。いったいこの条約は、どのようなものだったのでしょうか。何が日本にとって不平等だったのでしょう。この記事では、条文と照らし合わせながら、改めて探っていきますね。

日米修好通商条約が結ばれる背景ーまずは日米和親条約を見てみようー

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日米修好通商条約が結ばれたのは、江戸時代の1858年。ちょうど幕末と呼ばれる時期にあたります。1854年に結ばれた日米和親条約により、鎖国体制が終わりを迎えた4年後のことですね。この頃には、西欧諸国が日本に頻繁に来航し、開国と貿易を強く求めていました。

4年前の日米和親条約は、日本との貿易を開始する足掛かりとされたわけですが、この条約では人身保護と燃料・食料補給が主な目的だったんですね。それは日本が長年鎖国体制をとっていたこと、またアメリカ側も東アジアとの貿易を盛んに行っていたこと、さらにアメリカは鯨油を得るために捕鯨を行っていたので、日本に漂着した際には、無事に引き渡してもらうことが必要だったからとされます。

条文から見る日米和親条約#1~人身保護と燃料・食料補給が目的~

それでは、条文にはどのように書かれていたのでしょうか。実際に見てみましょう。

「第二ヶ条、一、伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て亜墨利加舩薪水食料石炭欠乏の品を日本人にて調候丈は給候ため、渡来の儀差免し候。」

下田港箱館(函館)港は、薪水、食料、石炭やその他足りないものを日本で供給できるという意味ですね。

「第三ヶ条、一、合衆国の舩日本海濱漂着の時扶助致し、其漂民を下田又は箱館に護送致し、本国の者受取申べく、所持の品物も同様に致べく候。尤漂民諸雑費は両国互に同様の事故、償及ばず候事」

米国船が日本に漂着した時には、漂流したアメリカ人を下田か箱館に護送して、アメリカ人に引き渡すこと、またその持ち物も同じように渡すこと。その際にかかった費用は、アメリカも日本も支払う必要はない、ということが書かれていますね。

「第四ヶ条、一、漂着或は渡来の人民取扱の儀は、他国同様緩優にこれ有、閉籠候儀致し間敷く、併ながら正直の法度には伏従いたし候事」

漂着した者、またやってきた者については、他の国と同様自由であり監禁はされないが、法律には従うこと、と記載されています。

条文から見る日米和親条約#2~片務的最恵国待遇が記載される~

しかしながら、不平等とされる内容は、日米和親条約にも記載されていたのですね。それが、以下の項目です。

「第九ヶ条、一、日本政府外国人ヘ、當節亜墨利加人ヘ差免さず候廉相免し候節は、亜墨利加人へも同樣差免申すべく、右に付談判猶豫致さず候事」

日本政府が、アメリカに許可していないことを他国に許可したときには、アメリカにも同じように許可すること。それについては、話し合いをせずにすぐに実行すること、という内容です。この内容について、日本とアメリカが逆の立場になった時のことは約束されていません。そのため、一方的にアメリカが得をする内容となっているんですね。そのため、片務的最恵国待遇を与えたと言われます。

条文から見る日米和親条約#3~初代はハリス、下田に領事を置く~

そして、下田領事を置くことになったのは、以下の項目からです。

「第十一ヶ条、一、両国政府に於て據無き儀これ有候模様によリ、合衆国官吏のもの下田に差置候儀もこれ有るべく、尤約定調印より十八ヶ月後に之無き候ては、其儀に及ず候事」

両国政府において、やむを得ないことが起こったときには、アメリカの役人を下田に置くことがある。これは、条約調印の18か月後からとする、という内容です。そして、ハリス初代駐日領事となりました。このハリスという人物が、日米修好通商条約の締結に積極的に動くのですね。

・日米和親条約は、人身保護と燃料・食料補給が主目的
片務的最恵国待遇が和親条約に記載されていた
下田に領事を置くことになり、初代は日米修好通商条約を結んだハリスだった

不平等条約と呼ばれる日米修好通商条約

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さて、初代駐日領事となったタウンゼント・ハリスですが、自ら希望して駐日領事になったと言います。彼は領事になる以前には貿易業を営んでおり、アジアに興味を持っていたんですね。そして、アメリカではニューヨーク市立大学シティカレッジの前身であるフリーアカデミーの創始者、教育者としても有名です。

そんなハリスは、日本との貿易を強く求めましたが、日本側は消極的。なぜなら、当時の孝明天皇が、攘夷派、つまり外国を追い払いたいという考えの持ち主だったからです。そして、いくら幕府とは言え、条約は勅許、要するに天皇の許しがなければ結べなかったのでした。

勅許が得られぬまま条約締結をした井伊直弼

ハリスは当時の世界情勢を理由に、条約締結を迫ります。中国がイギリスとフランス連合軍に負けたアロー戦争を持ち出し、日本も同じように西欧諸国から侵略される前に、アメリカと条約を結んだほうがよいと言うのですね。

もちろん、当時の日本は、西欧諸国と争って勝利するのは困難。そこで、条約締結に舵を取ります。幕府側の交渉にあたったのは、井上清直岩瀬忠震
勅許は得られないまま条約を締結したため、その時の幕府の権力者である大老井伊直弼は反感を買い、のちに桜田門外の変で暗殺されることとなるんですね。

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みほこ