日本の歴史江戸時代

50歳からでも全然大丈夫!精巧な地図を作った「伊能忠敬」の生涯について解説!

老人になるとあとはひっそりと暮らすのが当たり前と呼ばれていることもしばしばなんてすが、世の中には老人になってから一念発起して最終的には日本でも類を見ない大事業を成し遂げることもありました。 今回解説していく伊能忠敬もそんな1人だったのですが、彼はいったいどのようにして転身を遂げたのでしょうか? 今回はそんな伊能忠敬の生い立ちと偉業についてみていきたいと思います

元々は商人だった伊能忠敬

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伊能忠敬が生まれたのは1745年。上総国(千葉県南部)九十九里近くの小関村の名主に生まれました。名主というのは江戸時代では役人みたいな仕事をしており伊能忠敬は比較的に裕福な生活を送っていました。

実は元々伊能忠敬は最初から伊能姓ではなく、元々は小関家という家出身でした。その後母親が6歳の頃になくなると忠敬は神保家に、そして1742年には下総国香取にて酒造り業を営んでいた伊能三郎右衛門家に婿入りすることになりました。

ここから彼は伊能姓を名乗るようになりとなったのですが、忠敬と名乗るのはもう少し後。最初の頃は三郎右衛門と名乗っていました。

そして伊能忠敬と名乗るようになると彼は少し財政が傾いていた伊能家を自身の才覚で立て直していき、最終的には現在の価値にして20億円もの利益を叩き出して最終的には香取一帯の名主として知られる存在となっていました。

ちなみに、彼が測量を始めた時には一説によると3万両(現在の価値にして35億円相当)もの貯蓄あったとされています。

伊能忠敬の地図作りは半分自費でやらなくてはならなくなるのですが、それでも地図作りに打ち込めたのはお金に余裕があったからなのですね。

測量について学びたい!50歳にして華麗なる転身

こうして商人・名主として名を挙げた伊能忠敬でしたが、1793年に入ると伊能忠敬は「もうそろそろいいだろう」と隠居を志すようになりました。この時伊能忠敬は48歳。この頃は50歳まで生きれたら御の字という時代ですのでこの歳で隠居するのは妥当なものでした。しかし、伊能忠敬が隠居した理由は単に仕事から解放されたいというものではなくさらに大きな野望を秘めたものでした。

伊能忠敬は親交が深かった朱子学者の久保木清淵と共に関西地方の方に旅行をすることになるのですが、この旅行において伊能忠敬は少し興味を持ち始めていた測量技術を使って方位角を調べその記録を日記に残したそう。これが彼の地図事業の先駆けとなったのでした。

そして翌年の1794年に正式に隠居が受理されると1795年50歳の時に19歳年下の高橋至時に弟子入り。19歳下の人に弟子にしてほしいなんてプライドが邪魔してなかなか言いづらいものなんですが、それを越すほど彼は測量について学びたかったのですね

地球の全長を知りたい!実はついでだった地図作成

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こうしてついに彼の最大の事業となる測量に出会った伊能忠敬でしたが、彼の最大の功績である緻密な地図の作成は実はとある目的のついでに作られたのをご存知でしょうか?

伊能忠敬は元々地図なんて作ろうとは考えておらず地球の大きさを知ることが最優先だったのです。

次では伊能忠敬の元々の目的であった地球の大きさを求めるについてやどうして伊能忠敬が地図を作ることになったのかをみていきましょう。

新しい暦を作ろう

こうして天文学者である高橋至時に師事するようになった伊能忠敬でしたが、この時江戸ではこれまで使っていた暦をそろそろ改めようとする動きが現れるようになりました。

この頃のでも今でも暦で一番重要なことは星の動き。今では太陽暦のグレゴリオ暦を使っているため太陽を一周回る時間を基準としていますが、この頃は宝暦暦というのは太陰太陽暦という太陰暦という月の満ち欠けをベースにしているものの太陽の動きもみて閏月を入れるという暦を使っていました。

しかし、この宝暦暦がまぁ精度が悪く日食や月食の予測をほとんど外していたため評判が悪く幕府は改暦を命じることにしました。

そこで白羽の矢が当たったのが伊能忠敬の師匠である高橋至時。それに従うかのように伊能忠敬は暦についての勉強を始め「推歩先生」というあだ名がつけられるほどでした。

そして1797年に高橋至時は宝暦暦に変わる新しい暦寛政暦を完成。

暦を作るというプロジェクトはなんとかなされたのでした。

地球の大きさを知るために蝦夷地へ

こうして暦を作るという名誉をもらった高橋至時でしたが、それでもかれは不満だったそうです。

この頃オランダから来た書物に「地球は球形」ということが伝わってきたのですが、その地球がどんな大きさの地球なのか?直径はどれくらいなのかについてまだよくわかっておらず、暦を作る上でとても重要な役割を果たす緯度も25里や30里とかなりバラバラなもので信用はないものだったとか。

そこで伊能忠敬は自身がいた黒江町から当時暦を作っていた浅草まで北極星の角度を図り、それを求めて緯度を叩き出そうとしたのですが、距離はあまり遠くなくその差は1分ということはわかったのですが、師匠の高橋至時は「これじゃあ緯度が小さ過ぎて正確なものは出せねーな」と解答。両者が思案を巡らせている時思いついたのが「そうだ!江戸から蝦夷地(北海道)までの距離を測ろう!」というものだったのです。

そして、このアイデアが伊能忠敬が20年かけて作る地図の作成の元となっていくのでした。

測量の許可をもらうために

こうして蝦夷地までの距離を測ろうと両者はウキウキしたと思いますがこの頃は江戸時代。絶対に通らなければならない東北地方には幕府の土地である天領だけではなく数々の藩が跋扈する状況でした。さらにこの頃の蝦夷地にほいそれと旅行できるものではなくこの時代には蝦夷地は幕府の許可をもらわなければ行くことができないところでもありました。

そのため、両者はなんとかして蝦夷地に行く方法を探すことになるのですが、この時思いついたのが蝦夷地の地図製作という口実だったのです。

当時、蝦夷地には根室にラクスマンが来航したり、ロシア人が択捉島に上陸したりするほど緊張状態が続いており、幕府は軍事的な目標や基地建設に重要な蝦夷地の地図が喉から手が出るほど欲しがっていました。

そのため両者はこの幕府の願いを聞く形で蝦夷地に行く許可をもらい、そしてそのついでに緯度も求めようというものだったのです。

この作戦は大当たりで幕府は許可を出すのですが、これも一苦労なものだったそうで元々蝦夷地までは船で行く予定だったのですが、船で行くと距離を正確に測れないということで陸路に変更。測量命令も正式なものではなく測量試みというあくまでもチャレンジという形でした。

蝦夷での測量

こうして測量をするという名目で蝦夷地に向かい始めた忠敬一行。寒くなる前になんとか測量を終わらせたいということもあり1日に40キロというハイペースなスピードで移動を行い5月には津軽半島の北端である三厩に到着。そこから船で北海道の松前半島の南端である吉岡に向かってそこから松前藩の拠点である箱館に到着しました。

5月29日に箱館を出発した伊能忠敬一行は蝦夷地の海岸を歩幅を使って丁寧に測量。

しかし、蝦夷地の道は開拓されておらず、馬も一頭しか使うことができなかったため満足なぐらいの測量器具を持ち込むことはできませんでした。しかし伊能忠敬は昼間には海岸沿いを歩いて測量し、夜には天体観測を行なって星の角度を観察。難所も根性で超えていき7月に様似町から襟裳岬を近くを横断して東に向かい、その後釧路や別海に到着。最終的には蝦夷地の最東端である根室まで行くことを計画していたのですが、なんとこの頃にはアイヌ民族ではなくてはならないサケ漁を行うため船は使えないらしく仕方なく伊能忠敬一行は撤退。別海から箱館まで戻りその後本州に渡って江戸に戻りました。

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