日本の歴史昭和

「日中戦争」の背景・経緯・その後を元塾講師がわかりやすく解説

北京郊外にある盧溝橋。その歴史は12世紀末の金の時代にさかのぼります。全長266m余の長大さをほこり、マルコ=ポーロの東方見聞録では世界のどこにもない見事さを誇る橋と紹介されました。1937年、盧溝橋は日中両軍が衝突する舞台となります。当初、日本は分裂している中国を屈服させることはたやすいと考えました。しかし、現実は第二次世界大戦終結の1945年まで続く長い戦争となります。今回は日中戦争の背景・経緯・その後についてわかりやすく解説します

日中戦争の背景

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日中戦争の背景は大きく分けて3つです。一つは辛亥革命後も内乱状態を続ける中国の政情不安定。二つ目は日清戦争・日露戦争や五・四運動などをきっかけに日本の中国進出が本格化したこと。三つめは中国東北地方に展開していた日本の関東軍が引き起こした満州事変です。日本と中国が戦争に突入する背景を整理しましょう。

中華民国の混迷と蒋介石の北伐

中華民国成立後、北京で実権を握ったのは袁世凱でした。袁世凱は孫文から中華民国の実権を奪うと帝政の復活を夢見ます。しかし、袁世凱の時代錯誤的な希望はかなわず、失意のうちに亡くなりました。

強力な指導者不在の中華民国では、各地域の有力者が軍の力を背景に、まるで戦国大名のように各地を支配します。これを軍閥といいました。中国進出のチャンスを狙っていた日本は段祺瑞や張作霖などの軍閥に資金援助を実施し、勢力拡大をはかります。

一方、孫文中国国民党を結成し、革命勢力をまとめ反攻の機会を狙いますが、1925年に病死。かわって中国国民党をまとめたのが国民革命軍司令官の蒋介石です。

蒋介石は南部の広州から北京に向けて北上。各地の軍閥を平定しました。上海クーデタでそれまで協力関係にあった共産党とたもとを分かった蒋介石は北京に向けて進撃。1928年に南下して迎撃してきた張作霖を撃破し、一応、北伐を成し遂げました。

日本の中国進出

第一次世界大戦中の1915年、日本は袁世凱政府に対し二十一箇条の要求を突きつけました。大戦後、ヴェルサイユ条約などで列強が日本の動きを止めないと見るや北京大学の学生がデモ行進を行います。これを五・四運動といいました。

こうした反発をしり目に、日本は中国への介入を深めていきます。日本は軍閥の段祺瑞に資金提供を実施。次は、満州を支配していた張作霖を支援し着々と中国情勢に介入していきます。

蒋介石の北伐に際しては日本の山東省利権を守るとして3度にわたって山東出兵を実施。北伐を妨害します。蒋介石が強力な中国をつくることを抑えるためでした。

また、日本の関東軍は北伐軍と戦いやぶれた張作霖の排除を画策。張作霖が乗っていた列車ごと爆破します。関東軍の狙いは満州の直接支配でしたが、張作霖の息子である張学良が蒋介石に味方したため、関東軍の意図は失敗に終わりました。それでも、関東軍はあきらめずに次の計画を練ります。

満州事変の勃発

1931年、奉天郊外の柳条湖で関東軍が警備する南満州鉄道の線路が爆破されました。関東軍は爆破を張学良軍の仕業であると断定し、満州各地の重要拠点を次々と制圧していきます。

当初、若槻礼次郎内閣は事態の不拡大方針を表明。事件の鎮静化につとめましたが、関東軍は朝鮮半島にいた軍にも越境支援を要請。朝鮮軍司令官林銑十郎がこれに応じたため、派兵規模はさらに拡大。若槻内閣は事態の推移に対して事後承諾するしかありませんでした。満州のほぼ全土を支配した関東軍は、満州制圧を既成事実化するため「満州国」を建国。中華民国から中国東北部を切り離し植民地化を進めます。

中国は日本による侵略だと国際連盟に訴えたため、連盟はイギリスのリットン卿を団長とする調査団を派遣。リットン調査団は日本の軍事行動を自衛のためと認めず、満州国の承認取り消しを求めました。そのため、日本は国際連盟から脱退。さらに満州の開拓や属国化を進めました。

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