幕末日本の歴史江戸時代

明治維新における薩長同盟の意味は何だったのか

蛤御門の変で決定的に対立

この親幕府派の薩摩藩と、反幕府派の長州藩は、1864年に決定的に対立することになります。京都を終われた長州藩は、京都に攻め込みますが、御所を守る京都守護職の会津藩とそれを助ける薩摩藩がこれを撃退したのです。長州藩は、多くの若い藩士たちを失ってしまいます。これが、蛤御門の変でした。

若い藩士たちを失った長州藩は、反幕府派や親幕府派を問わず、薩摩藩に対する怒りを強めたのです。

なぜ、長州藩は薩長同盟に同意したのか

image by iStockphoto

長州が外国船に対して砲撃したことで、イギリスなどの外国は、幕府に対して賠償を求めますが、幕府は長州藩に直接賠償を求めるように仕向けます。そのために、長州藩は、四ヶ国艦隊の砲撃を受けるとともに、多額の賠償金を支払わされ、財政的にも苦境に陥ったのです。この苦境を救ったのが薩摩藩でした。

幕府の徳川慶喜主導の長州征伐による長州藩の苦境

徳川慶喜が主導権を持った幕府は、言うことを聞かない長州藩に罰を加えるために、第1次長州征伐を行います。そのために、長州藩はさらに苦境に立たされてしまったのです。親幕府派は再び、実権を握りますが、財政的な苦境から脱することはできませんでした。

長州藩の主導権を握った反幕府派と第2次長州征伐

長州藩は、経済的な苦境が続くと、再び反幕府派が勢力を盛り返します。それに対して、幕府の徳川慶喜は、再び長州征伐を命じたのです。しかし、国内での戦争に対しては、多くの藩が疑問を感じていました。外国勢がこの日本を狙っている時代に国内で戦争をすれば、外国勢を喜ばすだけだったからです。

坂本龍馬による長州説得

image by iStockphoto

土佐藩を脱藩し、いろは丸で海援隊を率いて商売を行っていた坂本龍馬は、勝海舟の弟子に当たることから、京都にいた頃から薩摩藩とも長州藩とも接触を持っていたのです。そして、日本が国内で戦争をする無意味さと外国勢を喜ばすことも知っていました。そのため、第2次長州征伐が始まる前に、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)の間で手打ちをさせようと画策します

しかし、もともと薩摩藩は長州藩が嫌いですし、長州藩は蛤御門の変での恨みがあり、薩摩藩を憎んでいたため、説得は難航しました。しかし、薩摩の西郷隆盛は、手打ちを決断します。財政的に苦しく、西洋の近代的な武器を購入するのが難しい長州に対して、薩摩藩が購入して長州に渡すという決断をすることによって、長州側も折れたのです。これによって、苦境に立たされていた長州藩は、高杉晋作を中心に近代的な武器で幕府軍に対抗し、長州藩内に攻め込むことを阻止できました。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: