- 日米和親条約とは_日本を開国させた条約
- 日米和親条約までの外国の日本への開国要請
- 中国清のアヘン戦争敗北の情報で幕府の動揺
- 江戸幕府のショックは大きかった
- 日米和親条約を要求するペリーの黒船の来航
- てんやわんやの江戸幕府
- 1年後のペリーの再来航で幕府は耐えられず、条約締結
- ペリー来航に動いた吉田松陰と攘夷論の台頭
- 日米和親条約とは何だったのか
- 日米和親条約は友好条約に過ぎない
- 日米和親条約の中身とは
- 領事ハリスの要求と井伊大老の登場
- 攘夷派への弾圧_安政の大獄
- 日米和親条約から日米修好通商条約へ
- 日米和親条約と日米修好通常条約の違い
- 攘夷から開国、倒幕へ_新しい時代へ
- 生麦事件と下関での長州の外国船砲撃事件の結果
- 日米和親条約に始まる開国の結果起こったこと
- 国内産業の打撃と、打ち壊しに見られる庶民の不満
- 薩長同盟と倒幕の実現_明治維新
- 日米和親条約は日本の近代化にとっては必要不可欠だった
- TPPの意味するものは?
- 日米和親条約のように私たちも決断すべき時がくる
この記事の目次
日米和親条約とは_日本を開国させた条約
日米和親条約は、それまでの江戸幕府が続けてきた鎖国から開国に転換させた条約として、アメリカ黒船艦隊のペリー提督とともに知られています。神奈川条約とも言われていますが、内容は知られていません。また、私たちは、いきなりアメリカ艦隊が来て開国を要求したように思っていますが、実はそれ以前から日本は諸外国から開国の要請を受けていたのです。
日米和親条約までの外国の日本への開国要請
江戸時代には、2代将軍秀忠の時代に鎖国が決定し、長崎に出島を作って、オランダと中国のみの入港を認めるだけで、他の外国船の入港は認めていませんでした。これが鎖国なのです。そのため、江戸時代には西洋の先進文化は、わずかにオランダ経由で蘭学として学ばれていたに過ぎません。著名な蘭学者が迫害を受けたこともかなりあったのです。
しかし、開国の要求は、実際には、すでに18世紀末からありました。1792年には、ロシアのラクスマンが、根室を訪れ、漂流していた日本人を送り届けるとともに通商を求めています。それ以降もイギリス、アメリカ、ロシアなど、さまざまな諸外国、ヨーロッパ列強の船が日本列島を訪れるようになったのです。そのために、幕府は、1808年に異国船打ち払い令を各緒藩に指示し、どんな場合でも外国の船の上陸や薪水(しんすい;まき、水)の要求を認めないように命令しています。この外交方針に対して、渡辺崋山などの蘭学者は抗議しますが、逆に幕府に弾圧されてしまいました。
こちらの記事もおすすめ
中国清のアヘン戦争敗北の情報で幕府の動揺
風向きが変わり始めたのは、1842年に起こったアヘン戦争です。中国の清王朝がイギリスに戦争で負けて、香港などを割譲し、開国させられるという事件が起きたからでした。
当時の東アジアでは、実態は別にして、中国の清や朝鮮王朝でも鎖国令が出されていたのです。でも、中国などは国土が広く、海岸線も長いために、実際にはヨーロッパ列強の船は、盛んに中国と貿易をしていました。ところが、清王朝で当時、イギリスによってアヘンという麻薬が蔓延するようになったため、鎖国を厳しく取り締まるようになったのです。当時、イギリスは、インドのアヘン(麻薬)を中国に輸出し、中国から茶や絹製品を輸入してするという貿易を盛んに行っていました。
そのため、イギリスは大きな打撃を受け、中国に対して抗議し、戦争に発展したのです。その結果、清は戦争に敗れ、香港を割譲し、開国させられました。そして、清の弱体化が明らかになり、ヨーロッパ列強はこぞって中国への進出を開始したのです。すぐ後には、イギリス、フランスとのアロー戦争も生じて再び清は負けています。
江戸幕府のショックは大きかった
それまでの日本では、一部で蘭学者などは西欧文化に触れて、近代文明の怖さを知っていましたが、幕府をはじめ、幕末近い一般の人たちも西欧文化については全く知りません。しかも、中国の清王朝は強いと思っていたので、アヘン戦争で清が負けて領土を割譲させられたことにが伝えられると、幕府の老中は大きなショックを受けたのです。その結果、異国船打払い令を緩め、漂流したような場合には燃料屋・食料を与えることを許すようになりました。
日米和親条約を要求するペリーの黒船の来航
image by iStockphoto
そして、ついに1853年には、ペリー率いるアメリカ艦隊の4艘の黒船が、太平洋を航海して、神奈川県の浦賀にやってきたのです。ペリーは、当時アメリカ合衆国大統領の国書を持参して、強引に幕府に開国を迫ります。当時の江戸幕府の老中首座だった阿部正弘は、取り敢えず、1年後に返事をするということで、ベリーは引き上げました。
てんやわんやの江戸幕府
阿部正弘は、朝廷に報告するとともに、諸大名の意見を聴きます。その中には、薩摩藩の島津斉彬もいました。しかし、これまで何ごとにも幕府が独断で決めていた政治状況は、これによって大きく変わってしまいます。島津斉彬なども幕政に関与する機会を伺ったのです。
1年後のペリーの再来航で幕府は耐えられず、条約締結
1年後の1854年、ペリーが今度は7隻の黒船を率いて、今の東京湾に侵入し、軍事的な圧力を背景に、開国を迫りました。これには、幕府も耐えられず、ついに幕府は日米和親条約に調印しまったのです。