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廃藩置県とは?明治政府の重要な政策はどのようにして行われたのか

住んでいる市が政令指定都市になって急に住所が「○○区」になったとか、区画整理で郵便番号が変わったとか、地域や住所に関する変更があると、書類やら何やら混乱しますよね。でも150年ほど前に、日本全体の「地名」が変わる大規模な政策が行われていたことをご存知ですか?明治維新の政策の中で最も大きな出来事のひとつに数えられる「廃藩置県(はいはんちけん)」。ああ、なんだ、あれね、という方も多いと思いますが、改めて考えてみると、どんな政策だったのかよく知らない、という声もちらほら。今回の記事では、そんな廃藩置県について掘り下げてみたいと思います。

廃藩置県が行われた理由とは?実行までの経緯を大調査!

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1871年(明治4年)に行われた、幕末から明治の大変革・廃藩置県。江戸時代までの「藩」というものを廃止して「県」を置くという意味の政策ですが、なぜそのような政策を行ったのでしょうか。廃藩置県が行われた時代の背景とともに、当時の状況を詳しく見ていきましょう。

そもそも「藩」とは何なのか?

「藩(はん)」とは一般的に、その地域を治めるものの領地や、その領地の中に暮らす人々による組織の総称です。

江戸時代の日本では、1万石以上の領地を持つ大名が治めていた地域をひとまとめにして「藩」としていました。「藩」の他に、幕府の直轄地として「天領」と呼ばれる土地もありましたが、ほとんどの地域は「藩」ごとにそれぞれ異なる政治が行われていたのです。

まず全国各地に「藩」があり、その上に江戸幕府が存在していました。

各藩にはそれぞれ、藩主と呼ばれるお殿様がいて、藩主を中心に日々の政治が行われていきます。でも、幕府に逆らったり、少しでも怪しい動きをしたら、藩主と言えども幕府から目をつけられ、他の土地に飛ばされてしまうこともありました。

江戸幕府は地方ごとに藩主に政治を任せながらも、絶対的な権力を持っていたのです。

もちろん、他の藩との密談も禁止。結託して江戸幕府に逆らおうとする輩が出てきては大変ですから、藩と藩との行き来もほとんどなくなります。

藩はひとつの国。よその藩は外国のようなものでした。そんな時代が、200年以上も続いたのです。

廃藩置県が行われるまでの経緯

江戸幕府は各藩に対して絶対的な権力を持っていましたが、基本的な統治は各藩がそれぞれ別々に行っていました。そんな時代が200年以上も続いたため、幕末の頃の日本は、かなり極端な地方分権体制となってしまっていたのです。

幕府が無くなり、新しく明治政府が立ち上がって、さあこれから新しい日本を、と思っても、今まで、薩摩だ長州だ土佐だ水戸だと各藩ごとに別々の政治を行っていたので、なかなか統一できず足並みが揃いません。

一応、1867年(慶応3年)の大政奉還によって、政権は朝廷に戻りました。しかしだからといってすんなり新政府主体の政治体制が整うわけもなし。

藩にとらわれていては諸外国と対等に渡り合う強い日本は作れない。財政も逼迫。何をやるにしても今までの「藩」というくくりが、新政府の前に立ちはだかります。

日本の近代化を進めるためには、まず中央集権化を進めなければなりません。

そこでまず、1869年(明治2年)には版籍奉還が行われました。全国274の大名の土地と人民が朝廷に返還されます。そして、各藩の藩主は、知藩事という役職で残留。しかしこれだけではまだ、中央集権には程遠い状態でした。

そこで次に実行されたのが廃藩置県です。

新政府は「藩」を完全に廃止し、全国各地に新しい行政機関となる「府」や「県」を配置して新政府主導の政治体制を整えようと考えました。

廃藩置県が実行された理由とは?

200年以上も続いた藩体制。いきなり廃止したら、きっと日本中が大混乱になり、一揆や戦争が起きてしまうかもしれません。ただでさえ、職を失うのではないかと不安に思っている武士たちから不満の声が上がっているのに、これ以上の火種は避けたいところ。そんな明治政府が編み出した苦肉の策が、版籍奉還から廃藩置県への段階的な政策だったと思われます。

そこまでして藩を廃止したかった明治政府には、財政難という事情があったようです。

江戸幕府が無くなった後、新政府は幕府が溜め込んでいたであろうお金をあてにしていましたが、実は幕府も財政難。金庫はスカスカでした。

びっくりした新政府。これからいろいろなことをやらなければいけないのにお金がない!新政府・大ピンチです。

お財布事情は諸藩も似たようなものでした。幕末の騒乱で多くの藩が財政難に。各藩も、各藩を率いていかなければいけない政府も逼迫では身動きが取れません。

もっとシンプルで効率のよい体制を整えたい。そんな事情から、どうしても廃藩置県を行わなければならなかったのです。

おらが村の名前が変わる?廃藩置県の影響とは

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「藩」を廃止して新しい府県を置く……。武士の誇りという観点から考えれば、新政府のやり方に一言ものを申したい大名は大勢いたはずです。しかし実際には、財政難で破綻寸前の藩も多く、貧しい藩にとってはありがたい話だったのかもしれません。すんなり気分よく、というわけではありませんでしたが、思ったほどの反発はなく、廃藩置県は粛々と進められていきました。次に、廃藩置県実施後の影響などについて見ていきましょう。

結局財政難に……お金がかかるよ廃藩置県

江戸時代265年間、各藩ごとにスムーズに統治をしていたと思いきや、参勤交代やら何やら縛りがきつくて、多くの藩が地域の商人たちなどからお金を借りており、巨額の借金を抱えていました。

そこへ来て幕末の騒乱。借金に借金を重ね、身動き取れなくなっている藩も少なくなかったのです。

そこへ廃藩置県のお達し。国家の統一・中央集権・新政府による税収の確保など、様々な理由から施行が決まった政策ですが、新政府が借金ごと引き取ってくれるならこんなにありがたいことはありません。

多くの藩が廃藩置県をすんなり受け入れます。

結果、各藩の負の遺産も引き受けることになってしまった新政府。その後も財政の建て直しに苦心し、様々な政策を打ち出しながら、少しずつ体制を整えていくことになります。

始めは302県?試行錯誤の廃藩置県

紆余曲折を経て、1871年(明治4年)に実行された廃藩置県。地図上、最初はもともとの藩をほぼそのまま府県に置き換えたため、なんと3府302県もあったのだそうです。

これではあまりに細かすぎて問題が起きそう。しかしそこは新政府。ぬかりありません。一気に変えてしまうと混乱する可能性が高いため、段階的に少しずつ進めていきます。

一度設置した府県を、数ヵ月後に3府72県に統合。翌年に3府69県に、さらに翌年に3府60県に……と、少しずつ調整を進め、府県のバランスを整えていきます。1876年には3府35県にまとめ上げましたが、ちょっとまとめすぎてしまったかなという話になり、最終的に1889年の3府42県(このときはまだ北海道と沖縄は含まれず)で着地。版籍奉還から実に20年もの歳月をかけ、何とか落ち着きます。

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