幕末日本の歴史江戸時代

明治維新における薩長同盟の意味は何だったのか

薩摩の背景には小松帯刀がいた

薩摩の西郷は、当時すでに幕府を見限っていたのです。もともと、薩摩藩は親幕府派でしたが、徳川慶喜の暴走によって日本国内で戦争が行われることに不安を覚えていました。そのために、西郷は、第2次長州征伐には参加していません。また、西郷の後ろには、小松帯刀がおり、長州藩との接触も行って側面から支援していました。小松帯刀は、島津久光の懐刀と言われた人物で、西郷隆盛や大久保利通が実戦部隊とすれば、参謀的な役割を果たした人です。彼も、薩長同盟に賛成し、西郷の決断を支持し、久光の了解をとり、応援しました。

薩長同盟成立によって歴史の流れは大きく変わる_明治維新へ

image by iStockphoto

この西郷隆盛と桂小五郎の手打ちにより、薩長同盟が成立し、第2次長州征伐が失敗したことによって、歴史の流れは一気に変わります。幕府は崩壊に向けて坂道を転げ落ちていき、明治維新が成立したのです。すなわち、薩長同盟は時代を変える転換点となったと言えます。

やはり、この決断をした西郷隆盛、桂小五郎とその仲介をした坂本龍馬は、明治維新を成功させた偉大な人物と言えるでしょう。

薩長同盟による効果_幕府の第2次長州征伐の失敗とその後の情勢変化

image by PIXTA / 37637193

薩長同盟によって近代的な西洋式武器を手に入れた長州藩は、高杉晋作が先頭に立って幕府軍に対抗します。関門海峡の対岸の小倉を攻め落としたり、艦隊を率いて幕府の艦隊を足止めするなど、縦横無尽の活躍で幕府軍を追い詰め、第2次長州征伐は幕府側の敗北に終わったのです。

さらに、この第2次長州征伐の失敗は、幕府の威信を大きく傷つけることになり、徳川幕府の絶対性は失われました。

苦境を切り抜けた長州と薩摩の目指すべきもの

薩長同盟は、もともと苦境に陥っていた長州を幕府の攻撃から守ることを中心に盟約を締結したものでした。そこには、まだ倒幕ということはなかったのです。しかし、第2次長州征伐で幕府軍が敗北した結果、両藩は共通の目標を持つことになります。すなわち、関ヶ原の戦いで痛い目にあった長州と薩摩は連合して、倒幕という目標に向かうことを確認したのです。

薩摩と長州は倒幕に向けて走り出した

image by PIXTA / 47207251

薩摩藩と長州藩が、幕府を倒すことを念頭において走り出したことによって、徳川15代将軍になった徳川慶喜は、危機感を持ち、先回りして大政奉還を行います。政治の実権を朝廷に返しますが、実際の政治の実権は慶喜がリーダーとして握ろうと考えたのです。

しかし、薩摩と長州は、朝廷において岩倉具視を抱き込んで、慶喜に対して反撃に出ます。逆に倒幕の密勅(天皇の命令書)を得て、幕府追い詰めたのです。徳川慶喜は京都から追い出されてしまいます。

鳥羽伏見の戦い_薩摩・長州連合軍対幕府軍は錦の御幡で勝負あり

京都から追い出された徳川慶喜は、大阪から幕府軍を京都に向けて出兵させます。しかし、京都の薩摩、長州を中心とした勢力は、人数では劣ったものの、近代的な武器と、錦の御旗(天皇家の旗)を押し立てて反撃に出たのです。錦の御旗を見た幕府軍は、攻撃を加えることができず、将軍慶喜は、戦い兵士たちを置いて、自分だけ船で江戸に逃げ帰ってしまいます。そのため、幕府軍は敗北しました。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: