日本の歴史江戸時代

徳川長期政権をもたらした?「生類憐れみの令」とは?その目的や意義を解説

江戸時代の第5代将軍徳川綱吉によって発令された生類憐れみの令は、生き物に対する過度の愛護政策であり、悪法として語り継がれていました。また綱吉は捨て犬をあわれみ、莫大な費用をかけて犬小屋を設置するなどしたため、犬公方というあだ名で呼ばれたと言われています。このように意味のない法令として認識されていましたが、実は江戸幕府長期政権をもたらした画期的な法令であったのです。

生類憐れみの令には想像もつかない目的があった

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生類憐れみ令は第5代将軍徳川綱吉が、跡継ぎに恵まれるために祈願を込めて発令したとされていますが、実はそのようなものではなかったのです。生類憐れみの令は徳川家康の悲願を達成するための形を変えた手段でした。生類憐れみの令によりこれまでの人の命に対する根底の意識に改革が生じ、徳川政権に対し反旗を翻し合戦に挑む傾向に楔が打たれたのです。生類憐れみの令が浸透することで、徳川政権に対し軍事的に反旗を翻す藩が生まれる脅威が一掃され、徳川政権の長期化に繋がりました。

学校の授業で教えられた生類憐れみの令とは

生類憐れみの令とは、徳川幕府第5代将軍である徳川綱吉が発令した動物を愛護するための様々な法令でした。この法令が作られた背景には、綱吉の母である桂昌院が、綱吉に跡継ぎができない理由として、前世においての生き物の折衝があったと僧より指摘されたため、その償いをこめたためとする説が有名です。また綱吉は儒学に傾倒している中で、戦国時代における生き物の命の考えを変えたいがためという説も有力になってきてきます。

綱吉は別名犬公方と呼ばれ、綱吉自身が戌年生まれであることもあり、犬に対する愛護の法令がたくさん出されました。犬を傷つけたりしたものは厳罰に処され、野良犬は御囲(おかこい)と呼ばれる施設の中で保護されました。その数10万匹ともいわれ、幕府の財政を圧迫したのです。さらには保護対象が犬以外にも向かい、その結果人々は肉や魚を食べられなくなってしまいました。もちろん人も対象にされ、捨て子や病人などそれまでは放置されていた立場の人間を保護するようにしたのでした。人々を苦しめた生類憐れみの令は後に綱吉亡き後の第6第将軍となった徳川家宣によって廃止されました。

 

生類憐れみの令は江戸時代の人々の意識を根本から変えた

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綱吉が将軍になる頃までは、江戸時代といえども、人の命に対する価値観は現代とは比べ物にならないほど低く抑えられていました。むしろ戦国時代からの影響で、野武士や浪人たちによる、人の試し斬りや辻斬りが横行していたのです。また上流階級の武家では鷹狩や犬追物と呼ばれる犬を標的にした狩りが嗜好とされており、いざ合戦が始まった場合の予行演習の性質も備えていました。しかし生類憐れみの令で特に犬が保護の対象になったことで鷹狩や犬追物を阻止することにつながったのです。鷹狩では鷹の餌として犬の肉が用いられていたため、生類憐れみの令によって鷹の餌の調達が不可能になりました。

その他にも旅先で重病人が出た場合に、今までは死を穢れであるとする思想の元、重病人を屋外に放置することで、宿場施設内で死者が出ないことを最優先する習慣があったのですが、生類憐れみの令により重病人は室内での介護対象になりました。こうしたことから、「人は死んだらそれまで」といった考えから「人をなるべく死なせないようにするべき」といった考えに変わってきたのです。このことは人と人が殺し合う戦国の世をより遠い存在へと追いやることになりました。

生類憐れみの令は江戸在住の諸藩の大名に浸透した

生類憐れみの令は地方ではあまり浸透しませんでしたが、江戸では徹底的に取り締まりがありました。そのため、参勤交代制度により江戸に住まわされている諸藩の大名の子供においては藩主になるまで、人を始めとした生き物の命の尊さを学んで江戸で成長することになったのです。それは一重に国元に帰った後の幕府に反旗を翻す気持ちが起きるのを防ぐことにもなりました。ほとんどの藩主が、人間及び動物に対する命の尊さを子供の時に学ばされた結果、人に対する命の尊さは計り知れないものであるという認識を持ってきたのです。当然合戦というものは、戦を交えて領土を広げる戦国ロマンという感覚から、罪もない人々を1人2人のみならず何千人も何万人も殺傷することになるといった感覚に変わってきました。そのため、徳川政権に対して反旗を翻す動機すらもなくなったのです。

もし生類憐れみの令が生まれていなかったら

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生類憐れみの令が生まれていなければ、人の命の尊さに対する認識はないままとなり、鷹狩や犬追物なども存続していたことでしょう。鷹狩と称して諸藩の私設軍隊の軍事訓練もまかり通っていたはずです。後々諸大名の間で軍事同盟が生まれないとも限りません。特に将軍家の跡継ぎが途絶えた時をチャンスとして諸藩の介入も出てきた可能性もあるのです。実際将軍家は7代で跡継ぎが途絶えてしまいました。このとき生類憐れみの令によって人の命に対する意識改革があったからこそ、御三家の間で話し合いが行われ、穏便に8代将軍が紀州徳川家から輩出されたわけです。

もし生類憐れみの令が存在せず、人の意識が戦国時代のままであれば、第7代将軍徳川家継亡き後の将軍後継者争いで、話し合いによるまとまりがつかずに戦乱の世に逆戻りする可能性があったでしょう。例えば尾張徳川家を筆頭としたグループと紀州徳川家を担いで独自の政権奪取を狙うグループが政権を争う中、双方のグループが独自に軍隊を編成して戦が勃発するなどです。

生類憐れみの令とは徳川の長期政権のための人の意識改革だった

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生類憐れみの令によって戦国時代から引きずられてきた人々の殺生に対する意識を根底から改革することができたのです。それによって「政権を転覆させ、新たな政権が生まれるまでには多くの血が流される」といった新しい意識が生まれることを促し、結果として徳川長期政権につながりました。人の意識を変える心理的な政策は徳川ならではの長期的視点に基づいたものでしょう。

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