- 1. 関ヶ原の戦いに至るまで
- 1-1. 豊臣秀吉亡き後、動き出した徳川家康
- 1-2. 武断派と文治派の対立が生じる
- 1-3. 豊臣政権内部に生じた分裂
- 1-4. 石田三成への反感を高めた武断派
- 1-5. 三成襲撃事件と家康の存在感アップ
- 1-6. 家康の権力が強まり、三成らが勢力を結集
- 1-7. 豊臣秀頼の存在は?
- 2. 関ヶ原の戦いの勃発
- 2-1. 家康の東進と西軍有利に進んだ序盤
- 2-2. 鳥居元忠の壮絶な討死「伏見城の戦い」
- 2-3. 三成の誤算と家康の到着
- 2-4. 動かなかった西軍の頼みの綱・毛利隊
- 2-5. 勝敗を決めた小早川秀秋の裏切り
- 2-6. 「軍神」島津義弘はなぜ戦わなかったのか
- 2-7. 敵中突破して生還した島津義弘の「島津の退き口」
- 2-8. 地方でも起きていた東軍と西軍の激突
- 3. 戦後処理と情勢の変化
- 3-1. 三成ら西軍諸将の処遇
- 3-2. 毛利や豊臣家の領地削減と家康の権力強化
- 3-3. やがて幕を開ける戦国最後の戦い「大坂の陣」
- 家康の躍進と豊臣の没落の象徴となった関ヶ原の戦い
この記事の目次
1. 関ヶ原の戦いに至るまで
まずは、関ヶ原の戦いについての概要です。
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で起こった大きな戦ですね。
東軍と西軍に分かれた戦国武将たちでしたが、東軍の総大将は徳川家康、西軍は毛利輝元(もうりてるもと)になります。
戦力は互角でしたが、西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りによって勝敗が決し、東軍の勝利に終わりました。
では、なぜこの戦いが起きてしまったのか、その背景をご紹介しましょう。
1-1. 豊臣秀吉亡き後、動き出した徳川家康
天下人・豊臣秀吉が亡くなると、彼に後事を託された五大老と五奉行が、秀吉の幼い息子・秀頼を支えて政権を運営していくことになっていました。五大老には徳川家康や前田利家、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らの有力武将が名を連ね、五奉行には石田三成(いしだみつなり)や浅野長政(あさのながまさ)らの名前があります。
しかし、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」で有名な忍耐の人・徳川家康が、ついに水面下で動き出すのです。幼いころは今川氏の人質となり、解放されてからは織田信長に従い、信長が死去してからは秀吉に従ってきた彼は、ついにチャンスを得たのでした。
そして家康は、戦国大名やその家臣への結婚を仲介したり、領地を勝手に与えたりし始めたのです。これは秀吉時代には秀吉以外がしてはならないことだったので、この違反行為を石田三成など秀吉の側近たちが見とがめ、危機感を強めていったのでした。
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1-2. 武断派と文治派の対立が生じる
徳川家康という、表面化してはいないものの大きな不穏となりうる存在以外に、豊臣政権内にはかねてから武断派(ぶだんは)と文治派(ぶんちは)の対立がありました。武断派とは、主に戦の最前線で戦う軍事の中心的な武将たちのことで、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)などが有名です。文治派とは主に内政を担当した官僚タイプの武将たちで、筆頭は石田三成、大谷吉継(おおたによしつぐ)などでした。
秀吉の天下統一により戦は激減し、武断派の存在感が低下していました。その一方で文治派は忙しく働くようになり、これによって両派にずれと反発が生じ始めていたのです。
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1-3. 豊臣政権内部に生じた分裂
また、秀吉が生きているときに起きた秀次事件というものも、内紛の火種となっていたとも言われています。秀吉が後継者として定めていたはずの養子・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が突如として秀吉に粛清され、彼と親しかった者たちは連座の罪に問われたのですが、三成は官僚として粛清を進める側にありました。一方、家康はそうした者たちの罪を軽減しようとして秀吉に取り成したとも言われているため、三成を敬遠し、家康に心を寄せる者がいたとも言われています。
1-4. 石田三成への反感を高めた武断派
また、石田三成という人物が非常に官僚肌の男で、情で動きがちな武断派の神経をことあるごとに逆なでするような態度を見せてしまったんですね。
特に朝鮮半島への出兵時に、加藤清正が突出して進攻すると「軍律違反」と秀吉に報告し、黒田長政隊の攻撃が鈍いとの報告を受けると「怠慢だ」と報告するなどしていたのです。後方支援の立場として務めをしっかり果たしただけとはいえ、清正や長政の心中が穏やかなはずはありません。このため、「前線の苦労など何も知らないくせに!」と、武断派は文治派というよりむしろ三成への反感を高めていき、家康へと接近していったのです。