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意外と知らない関ヶ原の戦い?戦いの背景からその後までをしっかり解説

きっと名前だけなら知っている関ヶ原の戦い。東軍と西軍が激突した、天下分け目の戦いです。しかし、なぜ東軍と西軍に分かれたのか、それぞれの大義とは、この戦いが豊臣家の滅亡にどんな意味を成したのか…意外と複雑だったりもするんです。また、戦後の戦国武将たちの運命も様々でした。今回は、関ヶ原の戦いについて、発端からその後までをわかりやすく解説していきたいと思います。

関ヶ原の戦いに至るまで

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まずは、関ヶ原の戦いについての概要です。

慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で起こった大きな戦ですね。

東軍と西軍に分かれた戦国武将たちでしたが、東軍の総大将は徳川家康、西軍は毛利輝元(もうりてるもと)になります。

戦力は互角でしたが、西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りによって勝敗が決し、東軍の勝利に終わりました。

では、なぜこの戦いが起きてしまったのか、その背景をご紹介しましょう。

豊臣秀吉亡き後、動き出した徳川家康

天下人・豊臣秀吉が亡くなると、彼に後事を託された五大老と五奉行が、秀吉の幼い息子・秀頼を支えて政権を運営していくことになっていました。五大老には徳川家康や前田利家、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らの有力武将が名を連ね、五奉行には石田三成(いしだみつなり)らの名前があります。

しかし、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」で有名な忍耐の人・徳川家康が、ついに水面下で動き出すのです。戦国大名やその家臣への結婚を仲介したり、領地を勝手に与えたりし始めたわけですね。これは秀吉時代には秀吉以外がしてはならないことだったので、この違反行為を石田三成など秀吉の側近たちが見とがめたのです。

武断派と文治派の対立が生じる

徳川家康という、表面化してはいないものの大きな不穏となりうる存在以外に、豊臣政権内にはかねてから武断派(ぶだんは)と文治派(ぶんちは)の対立がありました。武断派とは、主に戦の最前線で戦う軍事の中心的な武将たちのことで、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)などが有名です。文治派とは主に内政を担当した官僚タイプの武将たちで、筆頭は石田三成、大谷吉継(おおたによしつぐ)などでした。

秀吉の天下統一により戦は激減し、武断派の存在感が低下していました。その一方で文治派は忙しく働くようになり、これによって両派にずれと反発が生じ始めていたのです。

石田三成への反感を高めた武断派

また、石田三成という人物が非常に官僚肌の男で、情で動きがちな武断派の神経をことあるごとに逆なでするような態度を見せてしまったんですね。このため、武断派は文治派というよりむしろ三成への反感を高めていき、家康へと接近していったのです。

そしてついに、五大老のひとりで秀吉の親友でもあり、武断派にブレーキをかけていた前田利家が亡くなると、武断派は決起して三成を襲撃したのでした。

三成は逃げて無事でしたが、徳川家康がここで仲介役として前面に出てきます。

家康は三成にひとまず蟄居(ちっきょ/閉門・謹慎)という処分を下し、自分の力をさらに高めたのでした。家康にとっては事が思い通りに運んだのです。

加賀征伐と会津征伐、家康の権力が強まる

その後、家康は豊臣政権でもいちばんの大物である加賀(石川県南部)の前田家を征伐することに決めますが、前田家が恭順したために戦をすることなく脅威を取り除きます。そして次に、会津(福島県・新潟県の一部)の上杉景勝が軍事力を増強していることを口実に、派兵を決めたのです。こうして、家康は自分寄りの武将たちを率いて会津へと向かいます。この勢力がほぼ東軍となりますね。

一方、家康がいなくなった大坂では、家康のこのところの行状に反発と危機感を強めていた石田三成らが動き始めます。

家康を糾弾する「内府ちがひの条々(ないふちがいのじょうじょう)」を諸将に送り、挙兵の準備を始めたのです。そして、三成自身は親友の大谷吉継に「お前は総大将の器ではない」と進言されたこともあり、毛利輝元を説得して総大将に据えることにしたのでした。

豊臣秀頼の存在は?

ところで、秀吉の後継者・豊臣秀頼はこの時どこにいたのか?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。秀頼はまだ幼く、とても政務を執るような状況ではありませんでした。また、家康としても、こんな少年をどうこうしようという気持ちはまだなかったようです。

このため、東軍と西軍の開戦に至った大義名分は、「豊臣家、ひいては秀頼のために、害悪となる存在を取り除く」というものだったんですよ。互いが秀頼にとっての害悪だという主張であり、つまりは豊臣政権内での家臣同士の争いということだったのです。こういうわけで、一応主君という立場である豊臣秀頼の存在感が薄かったんですね。

秀頼の実母・淀殿(よどどの)は、三成が挙兵すると、家康に対して早く上洛するように書状を送っていますし、淀殿・秀頼体制が西軍というわけではなく、中立だったことがわかります。

関ヶ原の戦いの勃発

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家康が軍勢を率いて会津へ向かうと、三成ら西軍が挙兵し、これが一連の関ヶ原の戦いの発端となりました。

三成は親しい大名や毛利らと連携して西軍を組織、一方の家康は会津へと率いていた軍勢をほぼそのまま東軍として組織することに成功し、すぐさま関ヶ原へと軍を返します。

戦国武将たちそれぞれの思惑が絡まった、天下分け目の戦いが幕を開けました。

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