室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる関ヶ原の戦い!原因・その後・裏切り…歴史ライターがわかりやすく解説

きっと名前だけなら知っている関ヶ原の戦い。東軍と西軍が激突した、天下分け目の戦いです。しかし、なぜ東軍と西軍に分かれたのか、それぞれの大義とは、この戦いが豊臣家の滅亡にどんな意味を成したのか…意外と複雑だったりもするんです。また、戦後の戦国武将たちの運命も様々でした。今回は、関ヶ原の戦いについて、発端からその後までをわかりやすく解説していきたいと思います。

1. 関ヶ原の戦いに至るまで

image by PIXTA / 22922395

まずは、関ヶ原の戦いについての概要です。

慶長5915日(16001021日)、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で起こった大きな戦ですね。

東軍と西軍に分かれた戦国武将たちでしたが、東軍の総大将は徳川家康、西軍は毛利輝元(もうりてるもと)になります。

戦力は互角でしたが、西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りによって勝敗が決し、東軍の勝利に終わりました。

では、なぜこの戦いが起きてしまったのか、その背景をご紹介しましょう。

1-1. 豊臣秀吉亡き後、動き出した徳川家康

天下人・豊臣秀吉が亡くなると、彼に後事を託された五大老と五奉行が、秀吉の幼い息子・秀頼を支えて政権を運営していくことになっていました。五大老には徳川家康や前田利家、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らの有力武将が名を連ね、五奉行には石田三成(いしだみつなり)や浅野長政(あさのながまさ)らの名前があります。

しかし、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」で有名な忍耐の人・徳川家康が、ついに水面下で動き出すのです。幼いころは今川氏の人質となり、解放されてからは織田信長に従い、信長が死去してからは秀吉に従ってきた彼は、ついにチャンスを得たのでした。

そして家康は、戦国大名やその家臣への結婚を仲介したり、領地を勝手に与えたりし始めたのです。これは秀吉時代には秀吉以外がしてはならないことだったので、この違反行為を石田三成など秀吉の側近たちが見とがめ、危機感を強めていったのでした。

1-2. 武断派と文治派の対立が生じる

徳川家康という、表面化してはいないものの大きな不穏となりうる存在以外に、豊臣政権内にはかねてから武断派(ぶだんは)と文治派(ぶんちは)の対立がありました。武断派とは、主に戦の最前線で戦う軍事の中心的な武将たちのことで、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)などが有名です。文治派とは主に内政を担当した官僚タイプの武将たちで、筆頭は石田三成、大谷吉継(おおたによしつぐ)などでした。

秀吉の天下統一により戦は激減し、武断派の存在感が低下していました。その一方で文治派は忙しく働くようになり、これによって両派にずれと反発が生じ始めていたのです。

1-3. 豊臣政権内部に生じた分裂

また、秀吉が生きているときに起きた秀次事件というものも、内紛の火種となっていたとも言われています。秀吉が後継者として定めていたはずの養子・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が突如として秀吉に粛清され、彼と親しかった者たちは連座の罪に問われたのですが、三成は官僚として粛清を進める側にありました。一方、家康はそうした者たちの罪を軽減しようとして秀吉に取り成したとも言われているため、三成を敬遠し、家康に心を寄せる者がいたとも言われています。

1-4. 石田三成への反感を高めた武断派

また、石田三成という人物が非常に官僚肌の男で、情で動きがちな武断派の神経をことあるごとに逆なでするような態度を見せてしまったんですね。

特に朝鮮半島への出兵時に、加藤清正が突出して進攻すると「軍律違反」と秀吉に報告し、黒田長政隊の攻撃が鈍いとの報告を受けると「怠慢だ」と報告するなどしていたのです。後方支援の立場として務めをしっかり果たしただけとはいえ、清正や長政の心中が穏やかなはずはありません。このため、「前線の苦労など何も知らないくせに!」と、武断派は文治派というよりむしろ三成への反感を高めていき、家康へと接近していったのです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: