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明治維新の先駆者「吉田松陰」維新の偉人を育てた教育者をわかりやすく解説

明治維新を薩摩とともに成功させた長州藩ですが、藩内の精神的な支柱であり、多くの維新人材を排出したのが、吉田松陰の松下村塾でした。彼自身は明治維新を見ることはできませんでしたが、彼の門下生たちによって明治維新が成し遂げられたことは万人が認めるところです。この松下村塾で多くの門人を生み出した吉田松陰について、彼の生きざま、教育者としてのあり方を中心にご説明します。

吉田松陰とはどのような人物だったのか

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吉田松陰は、長州藩の貧しい藩士の杉家、杉百合之助の次男として生まれ、後に叔父の吉田家に養子に入ったことから、吉田姓を名乗っています。幼名を吉田寅次郎と言い、幼い頃から秀才と言われていました。吉田虎次郎は、まじめな性格でしたが、曲がったことは大嫌いで、常に正論で相手を論破していたのです。

吉田松陰を生んだ長州藩の成り立ちと幕末の姿

彼が生まれた長州藩は、江戸幕府が成立するきっかけになった関ヶ原の戦いで、藩主毛利輝元が名目上とはいえ、西軍の総大将になったため、お家断絶の可能性もあったと言われています。しかし、徳川家康と通じていた叔父の吉川元春の必死の懇願もあり、許されたのですが、領地は大きく削られました。もともと、毛利元就の時代に、中国地方の大半を領地とした毛利家でしたが、関ヶ原合戦後は、今の山口県だけを領地とする外様大名となって江戸時代を生き抜いてきたのです。そのため、長州藩内にはこの関ヶ原の恨みが引き継がれ、幕末の起爆剤になったとも言われています。

吉田寅次郎が生まれた頃の長州藩は、幕府への恭順派と反幕派が常に争う藩内状況にありました。吉田寅次郎は、勤皇思想を持ち、反幕派で、幕府恭順派にとっては邪魔な存在だったのです。そのため、松陰が幕府の政策に異を唱えたことを理由に幕府に引き渡され、井伊直弼の安政の大獄において処刑されました。松陰は、処刑されるまで自分の主張を曲げなかったのです。幕府恭順派と反幕派の争いは、彼が亡くなった後でも続きますが、幕府の長州征伐によって松陰の門下生を中心とした反幕派が藩の実権を握り、長州藩は倒幕を推し進めるようになりました。

長州藩の藩主であった毛利敬親(たかちか)はわりと優柔不断で、どちらの派が主導権を握っても、「そうせい」というのみで、自分の意見を言わないために、常に藩は揺れ動いていたのです。そのため、「そうせい」殿様と言われていました。

少年吉田寅次郎のエピソード

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吉田寅次郎の幼少期は天才と呼ばれ、藩校の明倫館で11歳にして藩主の前で講義を行っています。家柄は低かったものの、長州藩としても貴重な人材であったのです。

寅次郎が養子に入った叔父の吉田家の当主大助は彼が6歳の時に亡くなり、6歳にして吉田家の当主になり、もう一人の叔父である玉木文之進によって厳しい教育を受けます。それが、松陰が正しいと思ったことはテコでも動かないと言われた頑固さにつながったのです。もともと松下村塾は、この叔父の玉木文之進が開いた兵学校であったと言われています。

長州の明倫館の天才で師範時代:藩主の前で講義

僅か11歳にして藩主の前で山鹿流兵法を聞く人たちに目を見張らせた寅次郎は、松本村に才ありと言われるようになり、藩庁のある萩でも有名になったのです。そして19歳の時に、玉木文之進の元を独立して、藩校の明倫館の兵学師範になりました。

しかし、寅次郎は非常に知識への探求心が強く、九州への遊学、江戸への遊学などを藩に申し出て、江戸に出た際には、東北地方の視察などを行なっています。この幅広い行動によって、彼は国を守るために何をしなければならないのかを考えさせるようになったのです。特に江戸に出てから出会った佐久間象山との接触は、彼に洋学への興味を持たせます。その結果、ペリーの黒船艦隊の来航時には、黒船に乗り込もうとして、捕まって幕府に引き渡され、長州の野山獄に2年間収容されてしまうのです。

探求心が一途な江戸勤務と東北視察

江戸に出た松陰は、国学だけではアジアに押し寄せている西洋諸国の先進的な武器に対抗することは難しいと考えるようになります。敵を充分に研究する必要を感じ、洋学にも興味を持ち、日本の国防の実態を知るために、東北地方を視察旅行に出掛けたりしているのです。この時に知り合ったのが、安政の大獄で松陰とともに処刑された梅田雲浜や橋本佐内などの尊王攘夷派という人たちでした。しかし、彼ら攘夷派は、あくまでも鎖国を維持し、西洋の外敵を打ち払おうと主張しますが、松陰は、そのためには彼らの文明や技術そのものまで否定するということはなく、一線を画していたのです。

松陰は、やみくもに攘夷を唱えるのではなく、外国をよく研究しようという柔軟性を持っています。それは、松陰の探求心の賜物と言えるでしょう。

佐久間象山による薫陶とその結果牢獄へ

松陰の探求心に火を付けたのは、佐久間象山でした。当時、洋学を唱えて幕府にも睨まれていた象山ですが、松陰と不思議と馬が合い、さまざまな洋学の知識、先進性を松陰に教えたのです。佐久間象山は変人と言われ、癖の強い人物でした。しかし、その学問に対する造形の深さは万人が認めており、彼が江戸で開いた「五月塾」の門下には、松蔭だけでなく、勝海舟、坂本龍馬もいたのです。

佐久間象山は、松陰の黒船密航事件では、彼をそそのかしたとして入牢させられ、地元の松代藩(長野県)に蟄居させられています。そして、後には開国論を唱えたとして京の街中で暗殺されますが、その暗殺者の中には松下村塾出身の志士もいました。吉田松陰が生きていれば、悲しんだでしょうね。

黒船密航事件によって長州の野山獄へ

黒船密航事件の後、松陰は長州に帰還させられ、萩の牢獄である野山獄に入れられます。その際には、野山獄にいた囚人たちとさまざまな関わりを持ち、師事した彼らに教育を施しました。その獄中では、女性の囚人であった高須久子との間に仄かな情愛が生まれたと言われていますが、本当のところはわかっていません。

また、当時、松蔭とともに黒船に乗り込もうとした金子重輔が、士族ではなかったために庶民が投獄される岩倉獄に投獄され、その中で獄死してしまいます。野山獄は士族の牢屋で畳もあり、恵まれていました。さらに、松陰に気を使った看守たちが、書籍なども自由に読めるようにしたと言われており、松陰は比較的自由な時間を過ごすことができたのです。しかし、金子重輔が入った岩倉獄は非常に粗末で大部屋であるとともに、着物や食べ物が充分に支給されていなかったために獄死も多く、重輔自身も獄死してしまいました。金子重輔の死を知った松陰は非常に自身を責め、嘆いたと言われています。

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