室町時代戦国時代日本の歴史

戦国武将の【かっこいい家紋】を集めてみたー意味も解説

ご自分の家の家紋、どんなものかご存知でしょうか?絵柄は知ってても実は意味は知らない。という方も多いのでは?【家紋】というのは元来、公家や武家が家柄を表すために独自の紋章として用い始めたのが起こりですが、中には一風変わったものや、目を引くもの、すごくかっこいい家紋なども数多く存在しています。そこで誰もが知る戦国武将の中から、【かっこいい家紋】をひたすら集めてみました。もちろんその意味も解説しますので、世間話や飲み会の席などで話のネタにして頂けたら幸いです。

戦国武将のかっこいい家紋【植物編】

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かっこいい家紋。まずは植物をモチーフとした家紋をご紹介していきますね。日本古来から親しまれている草花が多く、いかにも日本的で情緒に溢れるものが多いのですよ。

戦国のヒーロー織田信長の家紋【織田木瓜】

織田木瓜の図柄

【織田木瓜(おだもっこう】は、尾張の一大名から身を興し、乱世を統一する寸前まで活躍した織田信長の家紋として、あまりに有名ですよね。こういった形の紋を【木瓜】と呼びますが、越前(現在の福井県)の戦国大名だった朝倉氏なども同じような家紋を使用していました。織田氏の出自も越前ですので、信長世代のはるか昔に朝倉氏と縁組をしたことがあり、その頃から織田氏も木瓜を用いているそうなんです。

その形は【木瓜】というだけあって瓜やキュウリの切り口を図案化している感じ。瓜は女性の象徴という意味でもあり、子孫繁栄を願うにはすごく縁起のよい対象とされていました。また一説によれば、上から見た鳥の巣を表現しており、そのことから子孫繁栄を意味するものだとも解釈されていますね。

五摂家の公家から家紋の使用許可を得る【津軽牡丹】

津軽牡丹の図柄

東北地方北部を治めていた戦国大名南部氏の一族で、大浦為信という武将がいました。彼は津軽地方(現在の青森県西部)を担当している一武将に過ぎなかったはずが、ある日突然、南部氏に反旗を翻して自主独立の活動を始めたのです。

瞬く間に南部氏の属城を次々と攻略。津軽地方に一大勢力を築きました。しかし、元来が南部の一族であるがゆえに血筋に問題がありました。そこで妙案を思いついた為信は、はるか遠く離れた京都の公家である近衛家にせっせと米や金品といった贈り物を届けます。さらには遠路はるばる上洛して近衛家に挨拶まで済ませ、急接近したのでした。

そろそろ良い頃合いだとみた為信は、周辺の有力者たちにこう宣伝します。「自分は、先代の近衛様が奥州へ遊歴された際に生まれた子供だった。だから今後は近衛家を名乗る」と。実は当時、近衛家は貧乏公家で、為信は金品を積んでまんまと近衛の養子になっていたのです。

血統もそれまでの源氏から藤原氏に鞍替えし、使っていた家紋も近衛家の紋である【牡丹】を用い始めました。さらには念が入ったことに、同じく形式上は近衛家の養子となっていた時の権力者豊臣秀吉にも気に入られ、まんまと本領安堵の約束を取り付けたのです。姓を「津軽」に改めた津軽氏は、その後幕末まで存続していきました。

葵の家紋は徳川家で独り占め!【葵の紋】

徳川葵の図柄

時代劇「水戸黄門」の印籠でおなじみの【葵の御紋】。徳川氏が幕府を開くまではけっこうおおっぴらに使用されていました。元来、葵の紋は京都の賀茂神社を象徴する紋章であり、賀茂社の宮司や神官などもみんな使っていたのです。

賀茂神社が総本山ですから、全国各地に分社や神領地が存在しており、松平(徳川)発祥の地である三河国加茂郡松平郷も例に漏れず、賀茂社の氏子ばかりでした。当時は十八松平と呼ばれるほど松平家の分家がたくさんあり、みんな葵紋を使用していたはずなのですが、家康が姓を【徳川】と改名することによって風向きが変わってきました。

徳川を名乗ることによって、他の松平との差別化を図り、自らは別格であると誇示したのです。関ヶ原の戦いで家康が政治の実権を握り、幕府を開く頃には、他の松平の氏族たちも【葵の紋】を使うことをはばかり、いつしか徳川宗家と御三家しか許されないことになりました。まだに【葵の紋】は徳川の権威の象徴となったのですね。

戦国武将のかっこいい家紋【動物編】

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かっこいい家紋。次は鳥や蝶などの動物をモチーフとした家紋を紹介していきます。そこに描かれている動物たちは空を飛べるものたちばかり。そこに意図されている意味とは、人間には成しえない飛ぶことができる動物への憧れが現れているのではないでしょうか。

戦国最強鉄砲集団を率いた雑賀孫一の紋【八咫烏】

八咫烏の図柄

サッカー日本代表のシンボルマークとしても有名な図柄ですね。この家紋は【八咫烏(やたがらす)】といって、元々ははるか昔、神武天皇が東征した際に紀伊国(和歌山県)から大和国(奈良県)へ道案内をした3本足のカラスが伝説となったものといわれています。以来、熊野本宮大社の信仰の象徴として崇められてきたのですね。

戦国最強を謳われた鉄砲集団【雑賀衆】の頭領として名高い雑賀(鈴木)孫市は、先祖を穂積鈴木氏といい、熊野の有力な社家の一つでした。だから家紋も【八咫烏】なのですね。その分流が雑賀鈴木氏となって現在の和歌山市周辺に居を構えます。

石山本願寺の求めに応じて援軍となり、その鉄砲戦術で織田軍をさんざんに悩ませたのは有名な話ですが、その軍旗にあしらわれた【八咫烏】の文様を見た織田の兵は、さぞかし震え上がったことでしょう。

愛らしい図柄とは裏腹な猛将の家紋【二つ雁金】

二つ雁金の図柄

織田家の筆頭家老として有名を馳せた柴田勝家。彼の家紋は【二つ雁金(ふたつかりがね)】といい、可愛らしいヒヨコが二羽並んだようなユーモラスな図柄になっています。なんだかゆるキャラっぽくも見えるのですが、実はいかにも武家らしい意味合いがありました。

家紋に描かれているのは、ヒヨコやスズメではなくて実は雁(かり又はがん)。雁は渡り鳥で、秋から冬にかけて大陸から日本へやって来ます。その年初めてやってきた雁を【初雁(はつかり)】とも呼びますね。

雁は古来から縁起の良い鳥だとされており、その鳴き声は「ぐあんぐあん!」と独特で、吉兆を呼ぶ声だといわれています。また、群れをなして飛ぶことから家中の団結や絆を固くするという意味も込められているのです。そういう意味で、家中の絆をしっかりとして幸福を呼び込みたい願望の表れだとして家紋にあてられたのですね。

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明石則実