- 1. 桜田門外の変に至るまで:井伊直弼の登場と幕府が直面した問題
- 1-1. 井伊直弼の大老就任の背景
- 1-2. 井伊直弼という男
- 1-3. 将軍継嗣問題
- 1-4. 外国と結んでしまった修好通商条約
- 2. 桜田門外の変に至る決定的な事件:戊午の密勅と安政の大獄
- 2-1. 反対派の意見をはねつけた井伊直弼
- 2-2. 朝廷までもが幕府に反対!「戊午の密勅」
- 2-3. 桜田門外の変につながった最大要因・安政の大獄
- 2-4. 直弼に追いつめられた水戸藩
- 3. ついに起きた桜田門外の変
- 3-1. 直弼を仕留めるために練られた計画
- 3-2. 実行犯たちの覚悟と直弼への憎悪
- 3-3. 桜田門外の変当日:薄かった彦根藩の警護
- 3-4. 襲い掛かる浪士たちが直弼を殺害
- 4. 桜田門外の変後の情勢
- 4-1. 井伊直弼の首の行方
- 4-2. 彦根藩のその後
- 4-3. 襲撃者と水戸藩、一橋慶喜のその後
- 4-4. 桜田門外の変の影響
- 直弼だけが悪とは言い切れない時代
この記事の目次
1. 桜田門外の変に至るまで:井伊直弼の登場と幕府が直面した問題
桜田門外の変が起きたのは、安政7年3月3日(1860年3月24日)のことでした。幕府の大老・井伊直弼が、水戸藩と薩摩藩の浪士によって暗殺されたのです。将軍継嗣問題に端を発した幕府内部の対立が、黒船の来航により開国か鎖国を続けるかで生じた攘夷(じょうい)思想に絡み、複雑にこじれた上の事件でした。事件に至るまでの経緯をわかりやすくご紹介します。
1-1. 井伊直弼の大老就任の背景
当時、江戸幕府は2つの大問題を抱えていました。ひとつは将軍継嗣問題、もうひとつはペリーの黒船来航後に次々とやって来た外国との修好通商条約締結の問題です。
安政5(1858)年に彦根(滋賀県)藩主・井伊直弼が幕府の大老に就任しますが、これは、こうした重大局面を打開するには彼の力が必要だという周囲の推挙があったためでした。
大老とは幕府の臨時最高職で、絶大な権限をもって、直弼はこの難局に当たることになるのです。
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1-2. 井伊直弼という男
井伊直弼は彦根藩主の子供でしたが、十四男で側室の子だったため、部屋住みの身分として肩身の狭い思いをしていました。しかし、跡継ぎとなるはずの兄たちが亡くなったため、思わぬところで次期藩主の座が回ってくることとなります。小さい頃から聡明で文武両道だった彼は、彦根藩主となると、藩政改革を行い、領民からの評判の高い名君となりました。
その後ペリーの黒船が来航すると、老中・阿部正弘(あべまさひろ)から意見を聞かれ、直弼は幕政にも参加するようになります。そこから、彼はすぐに幕政の頂点へと上り詰め、さっき述べたとおり、大老という最高職に就くこととなったのです。
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1-3. 将軍継嗣問題
13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)は病弱で人前に出ることさ嫌うという人物だったようで、跡継ぎの男子に恵まれそうもありませんでした。そのため、彼の生前から、後継者候補を巡って2つの派閥ができたのです。紀州徳川家の徳川慶福(とくがわよしとみ/後の家茂)を推す南紀派(なんきは)と、水戸徳川家の血を引く一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推す一橋派でした。
南紀派は、井伊直弼を筆頭に、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)や老中・松平忠固(まつだいらただかた)など。一橋派は、水戸前藩主ながらも絶大な影響力を持つ徳川斉昭(とくがわなりあき)や越前藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)など親藩大名や、外様ながら大きな力を持つ薩摩藩主・島津斉彬や宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)などが中心でした。
南紀派の言い分は、慶福が家定と血統が近いということ。対する一橋派の言い分は、外国勢力など大きな問題に直面している中なら、12歳の慶福よりも、年長であり聡明と評判の高い慶喜の方が適任だということだったのです。朝廷もまた、外交問題などを抱えるこの状況下であれば、将軍は年長の方が望ましいと考えていました。
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