幕末日本の歴史江戸時代

病弱なのに問題が山積み…13代将軍「徳川家定」の生涯と激動の時代を元予備校講師がわかりやすく解説

19世紀前半、江戸幕府は財政難や多発する一揆、迫りくる外国の脅威など内憂外患に見舞われていました。この難局で将軍に就任したのが13代将軍の徳川家定です。国家の命運を左右する重要事項が山積していました。しかし、病弱な家定にとってリーダーシップをとって国難に立ち向かうことは困難でした。今回は徳川家定が生きた激動の時代や家定の生涯について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

19世紀前半の日本

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19世紀前半、日本は天保の大飢饉に見舞われ多くの餓死者を出しました。政治面では老中水野忠邦が行った天保の改革が失敗。幕府権威が低下し始めます。これと反比例するように存在感を増したのが藩政改革に成功し力を蓄えた雄藩でした。また、欧米諸国は東アジアにも積極的に進出。イギリスは清とのアヘン戦争に勝利し、徐々に勢力を東アジアに拡大します。

天保の改革の失敗

11代将軍の徳川家斉の治世は大御所時代と言われ、幕府の財政支出が大きく拡大した時代でした。12代将軍に徳川家慶(いえよし)が就任したあとも、家斉は実権を握り続けます。

家斉の死後、悪化した幕府財政を立て直すため、老中首座の水野忠邦天保の改革を始めました。

水野は倹約令を発し、華美な祭りや食事を禁止。農村の荒廃を立て直すため、江戸に流入した農民を地方の農村に強制的に帰す人返しの法を実行しました。さらに、物価を引き下げるため特権商人である株仲間を解散させます。

しかし、いずれの政策も、大きな効果をあげることは出来ませんでした。また、江戸や大坂周辺に領地を持つ大名や旗本を遠方に移動させ、江戸・大阪周辺を幕府直轄とする上知令なども失敗幕府の権威は大きく低下しました。

雄藩の台頭

財政難にあえいでいる点において、幕府も諸藩も状況は同じでした。水野が天保の改革を行ったように、諸藩でも改革が行われます。長州藩では村田清風が中心となった改革を、薩摩藩では調所広郷が中心となり改革を実行。藩財政の建て直しに成功しました。

藩政改革に成功し、強力になった藩を雄藩とよびます。佐賀藩では藩主の鍋島直正が自ら先頭に立って改革を実行、土佐藩でも藩主の山内豊信が改革を行いました。

戊辰戦争や明治維新で活躍した薩摩・長州・佐賀(肥前)・土佐の4藩は薩長土肥と呼ばれ明治新政府の中心となります。天保の改革が失敗し思うように財政を立て直せなかった幕府に対し、諸藩は藩政改革に成功し幕府を倒しうる力を手に入れました。

日増しに強まる外圧

19世紀に入ると、欧米列強の船舶が頻繁に日本近海に出没します。1804年、ロシアのレザノフは長崎に来航し通商を要求。1811年にはロシア艦長のゴローウニンが国後島で捕らえられ、報復として高田屋嘉兵衛がロシアに抑留されたゴローウニン事件が発生するなど、北方海域で緊張が高まります。

1808年にはイギリス軍艦フェートン号がオランダ船を求めて長崎に侵入したフェートン号事件では長崎奉行が責任を問って切腹しました。

1837年のモリソン号事件では、日本人漂流民を送り届けに来たアメリカ船のモリソン号を砲撃して追い返すなど日本側の対応も過敏なものとなります。

1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官のビットルが浦賀に来航。幕府に対して通商を要求しますが、幕府は拒否します。しかし、1840年に清国で起きたアヘン戦争と清の敗北は幕府による頑なな鎖国維持が限界を迎えつつあることを示していました。

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