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維新期に舵取り役として活躍した「松平春嶽」この幕末四賢侯の春嶽の人生を解説

松平春嶽(まつだいらしゅんがく)は、識見豊かな学問観と確かな人物鑑識眼を持ち、幕末維新期の舵取り役として尽力した人物です。その活躍ぶりは、土佐藩主山内豊信(容堂)らと共に「幕末四賢侯」と呼ばれ称賛されています。でも、西郷隆盛には、「無能」との落胤を押されているのです。さて、どっちが本当の春嶽なのでしょう。今回は、内憂外患の維新期に舵取り役として活躍した「松平春嶽」の人生を解説します。

1.松平春嶽の生い立ち

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松平春嶽は、新政府構想を企てた人物です。自分の描いた構想は幻と終わるも、国家大乱を未然に防ぎ、その後も時代が春嶽を必要とし明治の礎を築きました。激動の幕末の舵取り役「春嶽」の生い立ちを見てみましょう。

1-1徳川御三卿田安家に誕生

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Necco~commonswiki投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

松平春嶽は、徳川家から分立した大名の御三卿(ごさんきょう)の一つ、田安家三代目当主田安斉匡(たやすなりまさ)の8男として、文政11年9月2日(1828年10月10日)に誕生しました。幼名は錦之丞(きんのじょう)で、諱は慶永(よしなが)です。春嶽は号で、正式には隠居後ですが幼いころからよく使っています。

『論語』などの中国古典の読書と筆を執るのが好きで、自分を「羊堂」と号したようです。多くの紙を使う春嶽を見て、父が「羊のようだ」と目を細めて語ったという逸話が残っています。他の兄弟が遊んでいても、読書や書き物を一心不乱に行っており、現在残る日記や筆録の数は幕末諸大名でも記録量は群を抜いているとか。

また、幼少期から質素を旨とする躾がされ、月に1本の筆と2ヶ月に2挺の墨以外は欲しい物があっても我慢する生活は、先での人間形成に影響したようです。

ちょっと雑学

徳川御三家(尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家)の格下にあたる御三卿には「田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家」があります。江戸城内に屋敷があり、それぞれの屋敷の近くにあった「田安門・一橋門・清水門」から付けられました。春嶽の田安家は、8代将軍吉宗の次男徳川宗武(とくがわむねたけ)が始祖です。

 

1-2幼くして領主となる

天保9(1838)年8月に、福井藩越前家15代藩主松平斉善(なりきわ)が19歳で突然病没すると、12代将軍の家慶の命で10月に春嶽が福井藩邸に移り、僅か11歳で越前家を継ぎ16代藩主となります。

福島藩は15代238年に渡り変死や自刃、狂死など当主が系譜を汚しており、石高は30数万石の厳封を余儀なくされていたのです。更に斉善は体が弱いため政治の統制を取れなく、天保の大飢饉後で藩財政も逼迫していました。

借金が1000両もあることを知り、春嶽自ら率先して質素倹約に励み500両にまで減らしています。朝夕は漬物、昼は御一汁か御一菜のみで、それ以外は一切口にしなかったようです。幼い藩主の姿勢を見て、家臣たちは一致団結し質素倹約に励んだとか。既に人並み外れたリーダーシップを発揮しています。

1-3リーダーへの才能開花

元服後は名を慶永(よしなが)と改めます。天保11(1840)年1月23日には、春嶽が絶大な信頼を置く家臣「中根雪江(靱負)」の画策で、旧守派の要「老中松平主馬」の任を解き、山県三郎兵衛を据えました。更に藩の利益より領民の実情を掴み、彼らのための藩政を目指したのです。

人材の登用にも力を入れ、新進気鋭の有能者を要職に揃え藩政改革を進めます。雪江を始め、村田万寿、藩医の橋本佐内、下級武士だった由利公正などが、近侍御用役に就きました。熊本からは横井小楠を顧問として招いています。彼らは、春嶽の期待に応え見事に藩政立て直し、春嶽の人物鑑識眼の秀逸さを示したのです。また、蘭学者市川斎宮も招き、福井城下に種痘所を開設、軍制強化による銃隊の編成にも寄与します。藩校明道館を開設するなど、教育問題にも力を入れました。

2.多難な動乱期の屋台骨となる

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春嶽はペリー来航の際には攘夷から転向し、貿易論を幕府に答申する開国派となりました。将軍継承問題が勃発すると、「血筋より実力」と主張し井伊直弼と対立します。将軍家の継承問題に揺れる春嶽の幕末動乱期を見てみましょう。

2-1黒船来航に将軍家継承問題どうなる日本

ペリーの黒船が浦賀に来航した大恐慌時に将軍家慶が病死します。その後を継いだ13代将軍家定が病弱で後継ぎがなく、将軍継承問題が持ち上がりました。御三家・御三卿(空邸の清水家以外)から5人の候補が選ばれます。将軍家定の従姉妹で僅か8歳だった紀伊藩主徳川慶福と、水戸藩徳川斉昭の第7子で17歳の一橋慶喜の2人が最終候補です。

「開国直後の多事多難な時代に、年端もいかない子供が将軍では…。」と、春嶽は血筋より実力をと英明の聞こえが高い「慶喜」を推します。継承問題の江戸城会議では、春嶽も薩摩の斉彬も一橋派で一致していました。

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