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幕末四賢侯の一人「島津斉彬」を元予備校講師がわかりやすく解説

幕末、藩政改革を果たした諸藩は以前に比べ発言力が増しつつありました。中でも、越前藩主松平慶永、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信とともに四賢侯と呼ばれたのが今の鹿児島県にあたる薩摩藩の島津斉彬でした。下級藩士だった西郷隆盛らをとりたて、彼らにチャンスを与えた君主としても有名です。今回は、幕末の政局をリードした島津斉彬について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

藩主になる前の島津斉彬

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1809年、島津斉興の子として生まれた斉彬は曽祖父の島津重豪にかわいがられて育ちます。しかし、父の島津斉興とは確執がありました。そのため、斉彬は40歳になっても藩主の座に付くことができません。家臣たちは斉彬派と斉興、久光(斉彬の弟)派に分かれて争います。その結果、お由羅騒動と呼ばれる跡継ぎ争いが勃発しました。

曽祖父、島津重豪

斉彬の祖父である島津重豪は長期間にわたって薩摩藩の実権を握り続けた人物です。19世紀後半から藩の政治をとりおこない、蘭学に強い興味を示しました。学問や教育にも力を入れ、藩校の造士館や武芸稽古場である演武館を設立します。そのほかにも暦学・天文学・医学の研究にとりくみました。

重豪の積極的な政策は藩の出費を増大させます。1787年、重豪は家督を長男の斉宣に譲って隠居しました。しかし、依然として藩の決定権は重豪が持ち続けます。

1809年、藩主の斉宣は支出を削減し、財政改革を実行しようとしました。このことが重豪の逆鱗に触れます。重豪は斉宣を隠居させ、財政改革を主導した多数の家臣が処罰されました。家臣たちが『近思録』という本の勉強会で同志を募ったことから、「近思録崩れ」とよばれます。これにより財政改革が大きく遅れました。

父、島津斉興と調所広郷の藩政改革

重豪の統治の末期、拡大し続ける財政赤字を重豪も無視できなくなりました。そこで、重豪は下級藩士の調所広郷を登用して財政再建にあたらせます。

1833年、重豪が89歳で死去すると斉興はようやく藩政の主導権を手にしました。斉興は引き続き調所広郷を登用し、財政再建を進めます。調所は藩財政の重荷となっていた500万両もの借金を250年の分割払いにすると通告。財政負担を一気に軽減させました。

収入増加策としては、琉球を通じた密貿易の活発化や奄美大島などで取れる特産の砂糖の専売制を推し進めます。その甲斐あって藩財政は好転しました。薩摩藩は1840年には債務どころか200万両もの貯蓄を成し遂げます。これにより、薩摩藩は重豪が作った巨額の借金からようやく解放されました。

調所広郷の失脚

斉興には正室との間に生まれた斉彬のほかに、側室お由羅の方との子である久光がいました。斉興は斉彬よりも久光をかわいがったといいます。

また、藩政改革の功労者で重臣の調所広郷も久光を支持しました。その理由は、斉彬の蘭癖にあったといいます。薩摩藩の債務を大きくした張本人である重豪は、私生活が派手だっただけではなく蘭学などの学問などにも多額の出費をしていました。調所は斉彬が重豪のようになり、巨額の出費をすることを恐れたのかもしれません。

久光を跡取りにしたいと考えていた斉興はなかなか家督を斉彬に譲ろうとしませんでした。そのせいで、斉彬は40歳になっても藩主世子のままだったのです。

斉彬派は幕府老中阿部正弘に琉球の密貿易を密告し斉興の隠居と調所の失脚をはかりました。調所は幕府の捜査が及ぶ前に江戸藩邸で急死します。藩主斉興に責任が及ぶのを避けるため、調所は服毒自殺しました。斉彬派は調所の排除には成功しましたが、斉彬の藩主就任の実現には失敗します。

お由羅騒動

調所の死後、薩摩藩内では改革を求める斉彬を推すグループと藩主斉興の寵愛を受けている久光を推すグループとに分かれて激しく争います。

斉彬の4男が2歳で急死すると、斉彬派は斉彬の子がすべて早死にしたのは、お由羅の方や久光派が呪詛したせいだと疑いました。そのため、斉彬派の家臣たちが久光や久光の母であるお由羅の方の暗殺を謀っているとのうわさが飛び交います。

1850年1月15日、斉彬派の家臣が久光やお由羅の方の暗殺を企てたとして逮捕され藩主斉興から切腹を命じられました。さらに、斉彬派の家臣たちは次々と遠島や蟄居などを命じられ、斉彬派は壊滅的打撃を受けます。

この一件をお由良騒動といいました。このとき、大久保利通の父は免職され鬼界島に遠島とされ、大久保自身も免職となり生活に苦しみます。お由羅騒動は薩摩藩全体を揺るがす大事件となりました。

家督相続

壊滅的打撃を受けた斉彬派の一部は、処罰から逃れるため福岡藩に逃げ込みます。福岡藩主は斉彬の大叔父にあたっていたので、藩士たちは福岡藩主に助けを求めました。

福岡藩主は斉興からの藩士引き渡し要求を拒否。弟にあたる八戸藩主とともに老中阿部正弘に事態の収拾を訴えました。阿部は斉彬を高く評価していた人物です。阿部は斉彬の窮地を救うため、将軍家慶を動かしました。

家慶は斉興を呼び寄せ、茶器を下賜します。将軍が藩主に茶器を下賜するのは、「隠居して茶を飲みながら余生を楽しめ」という示唆であり、事実上の引退勧告でした。斉興は将軍の意向を無視することはできず、ついに観念して藩主の座を斉彬に譲りました。斉彬は窮地のどん底から大逆転して藩主の座につきます。

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