幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる桜田門外の変!背景は?井伊直弼が暗殺された理由は?わかりやすく解説

4-1. 井伊直弼の首の行方

殺された直弼の首は持ち去られていましたが、彼の首を取った浪士が三上藩主・遠藤胤統(えんどうたねのり)の屋敷の前で息絶えたため、三上藩邸に収容されてしまいました。しかも、遠藤胤統は日頃から直弼の専制ぶりをよく思っていなかったようで、彦根藩から「首を返してほしい」という使者が来ても、5度も追い返したのだそうです。

それでも、彦根藩側は何とか首を返還してもらう手筈を整えると、その死を隠し、直弼は重傷だということにしました。というのも、跡継ぎを決めないまま藩主が死ねば、お家断絶となってしまうからです。それを避けるためにも、直弼が生きていることにして、次の藩主を決めなければなりませんでした。おそらく幕府も直弼の死を知っていたはずなのですが、直弼重傷説を了承したのです。

江戸城外で起きたこの事件については、多くの目撃者がいました。行列を見に来た見物客たちによって直弼暗殺の話はあっという間に広まってしまったそうですよ。

4-2. 彦根藩のその後

直弼が討たれたことで、彦根藩邸では水戸藩へ仇討ちしようという意見も挙がりました。しかし、前もって幕府からはそれを止められていたことと、家老の制止があり、それは阻止されます。また、直弼の護衛に失敗した生存者たちについては、重傷者は直弼を守る任務を果たそうとしたとして幽閉で済みましたが、軽傷だったり無傷だったりした者たちは、切腹・斬首・家の断絶など厳しい処分が下ったのです。

その後の彦根藩は石高を減らされ、京都の全権を任される京都守護職の座も剥奪されます。それでも、幕府による長州征伐には参戦しましたが、鳥羽・伏見の戦いでは、直弼が強硬に守ろうとした幕府を見限り、新政府方に転じました。こうした立場の変化は、実に激動の幕末らしいですよね。

4-3. 襲撃者と水戸藩、一橋慶喜のその後

襲撃者たちは、その場で死亡した者の他は、自ら切腹して果てた者や、捕えられて斬首となった者が大半でした。2人だけが明治時代まで生き延びたそうですが、この事件に関しては何も言い残さなかったそうです。

水戸藩は、彼らがすでに脱藩していたことから、咎めを受けることはありませんでした。そしてしばらくの後、一橋慶喜は15代将軍となりますが、英明の誉れ高かった彼をもってしても、幕府の凋落を止めることはできませんでした。そして彼は大政奉還を行い、幕府の終焉の当事者となっていくのです。

4-4. 桜田門外の変の影響

桜田門外の変により、直弼のような幕府主導の強権的なやり方は否定されてしまいました。また、譜代の彦根藩と御三家の水戸藩の内部対立は、幕府の弱体化を加速させていくこととなります。

こうした中で、外様の有力藩である長州藩薩摩藩などは力をつけ、薩摩藩の島津久光(しまづひさみつ)の要求で幕府は文久(ぶんきゅう)の改革と呼ばれる政治改革を行い、直弼時代の政治を清算することとなりました。しかし、失われた人材はあまりにも多く、諸藩からの幕府への信頼感も薄れ、討幕の雰囲気が漂い始めたのです。

そして、犬猿の仲だったはずの長州藩と薩摩藩は同盟を結び、討幕の兵を挙げます。桜田門外の変からわずか7年7か月後の慶応3(1867)年、大政奉還が行われ、江戸幕府の時代は終わりを告げることになったのでした。

直弼だけが悪とは言い切れない時代

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結果的に、対立相手からの憎悪を一身に受けることとなった井伊直弼が、桜田門外の変の標的となりました。しかし、彼の行動は、何を置いても「幕府のために」という信念に基づいてのことだったのです。こうした対立が凶行という形に結び付いてしまったことは、幕府がすでに末期に差し掛かっていたと考えてもいいのではないでしょうか。多くの要因が複雑に絡んで発生し、そして幕府の終焉を迎えるきっかけとなったのが、この桜田門外の変なのです。

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