安土桃山時代日本の歴史江戸時代

『バカ殿』だけではございません「織田信雄」の激動の生涯について解説

織田と言ったら必ず思い浮かべるのが信長だと思いますが、実は織田で日本の歴史を動かしたのは織田信長だけではなく、その子孫もある程度日本の歴史に名を残すようなそんなことをしていたのです。 今回解説していく織田信雄もそんな織田家の人物だったのですが、今回はそんな織田信雄について詳しく解説していきたいと思います。

北畠家の養子として

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織田信雄が生まれたのは1558年。まだ尾張(愛知県)のみを支配していた若き織田家の当主である織田信長の次男として生まれました。幼名は茶筅丸だったそうです。

ちなみに、彼は次男として言われていますが、実は三男である信孝の方が早く生まれたのではないかと言われています。

信雄の方が生駒吉乃という正室格の女性であったから信雄が次男となったとされていますが、次男であったので織田家の家督を継ぐ可能性はほとんど低く、信雄は同盟国であった1569年に南伊勢(三重県)の有力大名であり国司であった北畠家を支配下に置くとその北畠家の養子として入ることになりました。

1572年には北畠具豊という名前で元服し改名。3年後には北畠家の当主となって名実ともに北畠家の人になったのです。

徐々にわかってしまうダメ君主の姿

こうして北畠家の家督を継いだ信雄でしたが、その後は信長の戦に従軍しながら当主としてのスキルを高めていきます。

1576年には三瀬の変というクーデターを起こして北畠具教と北畠具房殺し北畠家を完全に乗っ取り南伊勢を完全に支配。1577年には紀州征伐にも参加して功績を挙げていきました。

しかし、欲が出てしまったのか信雄は1579年に親父である信長に相談も全くせずに1万の軍勢で隣国の伊賀に侵攻を行います。「1万もいれば大丈夫っしょ!」と息巻いていた信雄でしたが、伊賀国は皆さんご存知かもしれませんが忍者で有名な地域。ステレオタイプの忍者はいませんがそれでも織田軍を翻弄しまくり実質的な壊滅状態に追い込まれてしまいます。

親父に相談しないどころか親父のかおに泥を塗ってしまった信雄。これには信長も大激怒したようで「何やってんだお前は!親子の縁を切るぞ!」とかなりきついお叱りの手紙が届いたということは言うまでもありません。信長って身内にはかなり甘いことでも有名ですからかなりキレていたことがわかります。

本能寺の変と清州会議

その後こってりと叱られた信雄は迂闊な行動は避けていき、1580年には今の松坂の地に城を建てたり、1581年には信長とよく相談して伊賀に侵攻して平定したりするなど伊賀の失敗を着実に取り返していくのですが、1582年この時なんと親父であった信長が本能寺の変によって横死。信雄は親父が討たれたと聞くと軍勢を率いて近江土山まで進軍するのですが、軍勢が思ったよりもいなかったことを理由に撤退を決心。ちなみにこの時信長の居城であった安土城をなんと失火で燃やし尽くしてしまうという大失態を犯しています。

その後信長を討った明智光秀が山崎の戦いにて秀吉に撃破されたことを聞くと、清洲会議にて織田家の当主にはなれなかったものの、後見人として尾張・伊賀・伊勢100万石の領地を手に入れることになりました。信雄が当主になれなかったのはやはり安土城を燃やしたり、伊賀攻めでヘマを犯したことが響いたようです。

賤ケ岳の戦い

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織田家の当主の後見人となった信雄。しかし、これ以降力を増していった秀吉は次々と織田家の勢力を削ぎにかかっていきます。

1583年に秀吉のこの行動に待ったをかけた柴田勝家と織田信孝は秀吉に真っ向から反抗。

いわゆる賤ヶ岳の合戦が起こり、秀吉は柴田勝家の領地である越前と信孝の領地であった岐阜を攻め落とします。

信雄は勝家側につくか、秀吉側につくかと悩むのですが、最終的には秀吉につくことに。この頃は秀吉と信雄の関係はそれほど悪いものではありませんでした。

そして秀吉が岐阜の信孝を降伏させると、信雄が後見役となって安土城に入城。柴田勝家が切腹すると信雄は信孝に切腹を命令しました。

実はこの信孝の切腹には秀吉の思惑がありまして、秀吉からしたらこの頃はまだ織田家は主君筋。もし秀吉が信孝に切腹の命令を出そうものなら秀吉は『主君の息子を殺した謀反人』としてそれこそ明智光秀と同じ扱いを受けてしまい、丹羽長秀などといった秀吉についている織田家の家臣は黙ってはいません。そこでかねてより兄弟の問題があった信雄に信孝に対して切腹の命令を出すことによって秀吉は手を汚すことなく信孝を葬ることができる。

信雄は要するにまんまと秀吉の策にはめられていたということなんです。

小牧長久手の戦い

そして賤ヶ岳の戦いが完全に終結すると、秀吉は信雄を「用済み」として安土城から追い払いました。

安土城で信雄に主君づらをされていては具合が悪いからでしょう。さすがに信雄も自分の役回りに気づき、秀吉と対抗すべく徳川家康に接近します。 そして天正12年(1584)、信雄・家康連合軍と秀吉軍が対峙する小牧・長久手の戦いが起こりました。

信雄は家康や反秀吉派の大名と手を組んで秀吉に対抗したことや、家康の戦争スキルが高いお陰で局地戦では家康が秀吉軍を破りますが、

秀吉は「家康は大した男だけど信雄を破ればこの戦は勝ち」と考え、家康と戦争を挑むのではなく、信雄の領地である伊勢に侵攻。信雄には戦さのスキルは皆無であったため領地は羽柴方に蹂躙され、信雄は家康に無断で単独講和を結んでしまいます。

この結果戦をする理由もなくなった家康は渋々と撤退。信雄も領地を110万石から40万石へと減らされることになったのでした。

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