幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる桜田門外の変!背景は?井伊直弼が暗殺された理由は?わかりやすく解説

1-4. 外国と結んでしまった修好通商条約

日米和親条約締結後、アメリカはさらなる条約締結を求めてきました。これが安政5(1858)年に結ばれる日米修好通商条約です。日本に関税自主権(国が輸入品に対して関税を決める権利)がなく、領事裁判権(外国人が住んでいる国で罪を犯しても、その国ではなく本国領事の裁判を受ける権利)を相手に認めるという不利なものでした。つまりは、外国の好きなようにされてしまうということだったのですね。

ただ、この頃の日本は攘夷(じょうい)思想が急速に広まっていました。攘夷とは、外国勢力の排斥を叫ぶ急進派で、一橋派の徳川斉昭を筆頭とし、修好通商条約の締結には断固として反対していました。また、孝明天皇(こうめいてんのう)も締結に際して勅許を出さず、交渉が停滞していたのです。

これに際し、井伊直弼は交渉の場に立つ者からの「やむを得ない場合は調印してもいいか」との問いに、「その場合は仕方ないけれども、できるだけ引き延ばしてほしい」と伝えました。これがOKサインと受け取られ、すぐさま条約は締結されてしまったのです。決して、直弼は積極的に勅許なしでの締結を進めたわけではなかったというわけなんですね。

2. 桜田門外の変に至る決定的な事件:戊午の密勅と安政の大獄

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将軍継嗣問題や諸外国との修好通商条約調印についてのゴタゴタにより、幕府内は直弼ら南紀派と一橋派との対立が激化しました。それを決定づけたのが、孝明天皇によって下された戊午の密勅(ぼごのみっちょく)と、直弼が行った安政の大獄(あんせいのたいごく)です。それらはどのようなものだったのか、解説しますね。

2-1. 反対派の意見をはねつけた井伊直弼

とはいえ、アメリカを含め5ヶ国と条約が締結された際に勅許がなかったことは、一橋派に格好の攻撃理由を与えました。ただ、鎖国は幕府が始めたことであり、それをやめることに関しても、特段天皇に許しを得る必要はないのではという考えもあったのです。

しかし、一橋派の諸大名たちは江戸城へ登城すると、無勅許での条約調印に関して激しい非難を行いました。するとこの翌日、直弼はすぐさま反撃を開始します。将軍・家定の養子に徳川慶福を迎え、後継者とするという旨が発表され、無許可で登城したとして、一橋派に謹慎などの処分が下ったのです。

これは将軍・家定の名で下された命令でしたが、家定はこの翌日に亡くなっており、命令を出すことなど不可能だったのではないか、裏に直弼の指図があったのではないかと疑う者も多くいました。しかし、すでに家定は亡くなり、慶福は養子となっています。このため、誰も文句を言えないまま、慶福は14代将軍の座に就き、名を家茂と改めたのでした。この前に天皇から「将軍の後継ぎは英明・年長であるものを指名すべき」とした勅書が下されていたのですが、それを受け取った者が隠し続けたために家茂が将軍になったという話もあります。

2-2. 朝廷までもが幕府に反対!「戊午の密勅」

勅許なしに幕府が条約に調印したとして、孝明天皇もまた怒りを露わにしました。公家たちも軒並み攘夷に傾いており、直弼の行いを非難しました。そして天皇は、ついに「戊午の密勅」なる勅命を攘夷の急先鋒でもある水戸藩に授けたのです。

戊午の密勅とは、水戸藩に対して天皇が幕政改革を指示し、それを諸藩に伝えるようにと命じたものでした。

朝廷が幕府に指示するなど、この時は有り得ない事態だったわけで、しかもそれが将軍や幕府中枢ではなく、御三家とはいえただの一藩だった水戸藩に下されたということは、幕府としては面目をつぶされたも同然だったのです。

また、一橋派である島津斉彬も直弼の強引なやり方に反発し、兵を率いて上洛する準備を始めました。ところが、彼はこの直後に急死してしまい、一橋派の勢いは削がれることになってしまいました。

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