日本の歴史江戸時代

寛政の改革を実行した白河藩主「松平定信」を元予備校講師がわかりやすく解説

ヨーロッパでフランス絶対王政に対する反感が高まっていたころ、日本は天明の大飢饉により多くの餓死者が出ていました。江戸では田沼意次が失脚し、白河藩主松平定信が老中首座に就任。寛政の改革を始めます。全国各地で餓死者が出る大惨事に、定信はどのように立ち向かったのでしょうか。今回は松平定信と寛政の改革についてまとめます。

白河藩主となった松平定信

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後に白河藩主となる松平定信は、八代将軍吉宗の孫です。世が世なら将軍となったかもしれませんが、白河藩松平家に養子に出されたことで、将軍就任の可能性はなくなりました。白河藩主となった定信は白河藩の藩政改革を実施します。改革の成果が発揮されたのは天明の大飢饉のとき。東北諸藩で餓死者が相次ぐ中、定信は白河藩の被害を最小限に食い止めます。

定信の生い立ち

1759年、定信は御三卿の一つである田安宗武の七男として生まれました。御三卿は、徳川吉宗の子や孫によってたてられた家です。将軍家(徳川宗家)の跡継ぎがいなくなったとき、代わりに将軍を出す家としてたてられました。家格は尾張・紀伊・水戸の御三家に次ぐものとされます。

1768年、定信は白河藩松平家に養子に出されることになりました。白河藩は徳川家の血を引いているというものの、御三家や御三卿よりはるかに格下の譜代大名に過ぎません。白河松平家に出されるというのは、将軍後継者から外れることを意味しました。

白河松平家に養子に出されることが決まった後も、定信は田安家で暮らします。1774年、兄の治察が病死したとき、田安家の家督を継ぐはなしも出ましたが、結局、当初の予定通り白河藩の跡取りとなりました。これを田沼の陰謀と考えた定信は、田沼を激しく憎んだと伝えられます。

白河藩襲封と藩政改革

白河藩主となった松平定信は、藩の政治改革に乗り出します。白河藩に限らず、江戸時代中期は藩政改革が盛んに行われた時期でした。

定信は支出を切り詰めるため倹約令を出します。加えて、武士達が武芸を怠らないよう中断していた武備祭を再開しました。さらに、藩校の立教館や庶民の学校である敷教舎をたて、藩内の学問レベルを上げます。

定信は人口問題にも取り組みました。江戸時代の農業は人手がかかるものです。人口が多いほど、藩の生産力は上がったといってよいでしょう。しかし、江戸時代は度重なる飢饉に見舞われた時代でもあります。人口増加と飢饉対策を両立させる必要がありました。

定信は、飢饉に備えて村々に郷蔵を作らせ食糧を備蓄させます。また、子供が生まれてすぐに殺してしまう間引きを禁止。間引きで少なくなっていた女性を越後から呼び、白川藩の男性と結婚させ人口増加を図りました。さらに、地場産業を育成し織物や漆器、和紙などの生産を奨励します。

天明の大飢饉に立ち向かう定信

1782年から88年にかけて、東北地方は悪天候や岩木山・浅間山の噴火による日照不足で未曽有の大飢饉に見舞われました。江戸時代の三大飢饉の一つに数えられる天明の大飢饉です。弘前藩や南部藩など東北諸藩を中心に90万人以上の餓死者を出しました。

明治時代に発行された『凶荒図録』によると、大飢饉の村々では食べ物が何一つなく、牛や馬どころか犬や猫まで食べつくしたといいます。天明の大飢饉によって廃絶してしまった村も数多くありました。

諸藩で死者が相次ぐ中、定信が統治する白河藩は他藩よりも秩序が保たれていました。その理由は、定信が分領の越後から米を取り寄せるなど、食糧確保に成功していたからです。白河藩では餓死者を一人も出さなかったと言い伝えられていますよ。

松平定信が実施した寛政の改革

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天明の大飢饉は、将軍の信任を得て政治の中心にいた田沼意次を辞任に追い込みます。かわって老中首座となったのが松平定信でした。定信が抜擢されたのは白河藩統治の手腕を見込まれたからです。定信が始めた寛政の改革では、農村復興や社会改革、海防強化政策などを実行しました。その一方、定信の改革は思想・出版に及び、息苦しい世の中となります。その後、定信は11代将軍徳川家斉と衝突し、老中を辞任しました。

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