幕末日本の歴史江戸時代

江戸時代では珍しい個人主義者「徳川慶喜」の人物像をわかりやすく解説

江戸時代260年に終止符を打った徳川慶喜(よしのぶ)。慶喜を称賛する意見もあれば、反対に無責任、さらには愚鈍だったとする意見も飛び交う中、慶喜に対する一定の評価がないのが現状です。それは慶喜の評価を日本人の思考の枠の中で行うから、わからない部分がでてくるのであり、実は徳川慶喜は、日本の土壌からは生まれることのない徹底した個人主義者だったのです。

徳川慶喜とはどんな人?

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徳川慶喜は江戸幕府第15代将軍であり、江戸幕府最後のみならず、日本最後の征夷大将軍です。天保8年(1837年)に徳川御三家の一つである水戸徳川家第9代藩主の徳川斉昭の七男として水戸藩の江戸屋敷で生まれました。幼名は七郎麻呂であり、幼少から利発であるとされたのです。七男であるにも関わらず、父の斉昭からは大切にされました。ついには第12代将軍徳川家慶の目に止まり、御三卿の一つである一橋家を相続することになったのです。このときに徳川家慶の慶の文字をもらい、徳川慶喜と名乗りました。

その後慶喜は将軍候補にまで推されますが、対立候補であった家茂の支援者である大老井伊直弼が実権を握り、安政の大獄で一時は隠居謹慎処分を言い渡されたのです。しかし桜田門外の変により、大老井伊直弼の死に伴い、慶喜の謹慎が解かれました。2年後に勅命を受け、将軍後見職に就任、禁裏御守衛総督、さらには将軍へと就任しますが、後に大政奉還を行い、260年続いた徳川幕府を終わらせました。明治時代に入ってからは余生を送り、趣味に没頭するなどして大正時代まで生き続けました。

人によって変わる徳川慶喜の評価

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徳川慶喜の評価は、人によって両極端に分かれます。類まれなる才能を持ち、徳川家康の再来とまで評される一方、無責任かつ冷徹であり、人としての情に欠けるとする評価もあるのです。さらには愚鈍そのものであり、徳川家を滅ぼすために慶喜は将軍になったようなものなど、酷評に晒されることもあります。徳川慶喜を高く評価する根拠は、幕末において幕府を終わらせることで、内戦を避け列強からの植民地化を避けた功績です。論理的に物事を捉えることに長け、意見が対立する大名や公家たちをことごとく論破してきました。また江戸城の無血開城を成し遂げた人物としても高く評価されています。

一方、徳川慶喜を低く評価する根拠としては、主に新政府軍との戦いで、部下をおいて真っ先に軍艦で大坂から江戸へ向かった事など、敵前逃走したことです。他にも安政の大獄で自分を謹慎の身から救い出してくれた島津久光に対する冷たい対応や、明治以降に窮地に陥ったかつての幕臣が面会を申し出ても無下にしたことなどに対しても低い評価につながっています。また愚鈍であるとの評価は、余生を暮らす中、かつての幕臣の困窮の訴えに無関心を装い、自分自身は潤沢な資金を元にいろいろな趣味に時間を費やしていただけだったことが根拠とされていたのです。

家康の再来と評価される徳川慶喜とは?

素晴らしい政治を行うには先見の明を持つだけでは成り立ちません。政治判断した結果が、それまでの常識から著しく逸脱していた場合には、周囲を説得させる必要もあります。しかし日本の文化は、同調圧力が強く、いかに将軍といえども周囲の意見を無視して独断を貫徹するわけにはいきませんでした。しかし慶喜は違っていたのです。慶喜は日本の文化としては存在しなかったディベートの達人でした。それゆえ必然的にトップクラスの政治家として君臨することができたと考えられたのです。

慶喜は先見の明により、朝廷の許可を待っていては列強の植民地になりかねないと危惧していました。そのため無許可で兵庫開港の条約を結んだのですが、このときに抗議した島津久光や松平春嶽、伊達宗城、山内容堂の四人の藩主をディベートで論破して圧倒してしまったのです。その後朝廷へ行き、優柔不断な摂政に対しても徹夜を重ねて説き伏せるなど、外交を独断で決行した後の反対勢力に対する論戦において常勝していました。こうしたことから、列強に対する有効な手立てを講じた上で、内戦を防ぐことに成功した人物と評価されたのです。すなわち大政奉還後の戊辰戦争において、リーダーシップを放棄することで、朝廷を立てて官軍が勝利するように陰ながら導いた人物と評価されました。

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