幕末日本の歴史江戸時代

常識を打ち破って日本を救った「阿部正弘」の政治を歴史好きが徹底解説

今から160年前の幕末、日本は未曽有の国難に直面しました。「黒船来航」。日本史上、最も有名な事件の一つです。ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、アメリカ大統領の国書を携え「開国」を求めて日本の浦賀を訪れます。この出来事からわずか半年という短い期間で、日本は国のあり方を決めなくてはならなくなりました。このとき、幕府の最高責任者であり、日本の行く末の判断を任されたのは、まだ若干33歳の青年政治家、阿部正弘です。215年続いた鎖国政策を変えて開国するか、攘夷を守るために外国と戦うか。どちらに転がっても最悪の結果は国の崩壊、そんな重大な選択を迫られた男は葛藤と苦悩の末にどんな決断を下していくのか、みていきましょう。

金なし軍事力なしで戦うことを求められた政治家・阿部正弘

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黒船来航によって選択を迫られた日本の行く末、そんな国難を背負ったのは、33歳の若さで幕府の最高責任者となっていた阿部正弘でした。非常に優秀な政治家であった彼ですが、黒船への対応は困難な状況へと追い込まれていきます。当時の幕府の困難についてみていきましょう。

黒船来航の情報をつかんだものの…

1853年6月3日、ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀沖に姿を現しました。この出来事は、晴天の霹靂、というわけではありません。実は1年前、阿部は長崎にあるオランダ商館からある報告を受け取っていたのです。それは「アメリカが日本に向けて使節を派遣する」というもの。目的は交易のため日本の港を開くこと、つまり開国でした。そして、開国を実現するために江戸城の城攻めの準備までしているというのです。

この時代、西洋は圧倒的な武力を背景にアジアの植民地支配を拡大していました。10年ほど前には隣国である中国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、領土を割譲しています。そしてこの時代のアメリカは、新興国でありながらも領土を着実に広げており、その膨張欲をさらに西の太平洋にまで向けていたのです。西洋列強の勢力拡大の波が押し寄せる中で、日本が200年以上守ってきた鎖国は風前の灯でした。

無力な幕府と老中阿部正弘の知力の戦い

阿部はその他の大勢の政治家と同じように、鎖国を守ることを考えていました。200年以上続いている国のあり方を自分の時代に変えるわけにはいかない、そういった考えも働いたのでしょう。しかし当時の日本には、相手の理不尽な要求を防ぐために必要な海防や軍事力はありませんでした。しかも幕府財政は火の車。海防防御のための軍艦や砲台にまわす資金なんて当然ありませんでした。

「必勝の利はなはだ覚束なし」

日本の軍備の実情や経済力を熟知する阿部は、手紙の中で勝ち目のないことを認めています。幕府は対策を立てきれない「無能」だったというより、対策をうつための軍備や経済力がない「無力」な状態だったという方が正しいでしょう。

しかし無力な日本は決してアメリカの力を恐れて望まない条約を結ばされたわけではありません。ここから阿部は「知力」をもって日本を導いていきます。

最大の敵を味方に変えろ!

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「黒船来航」の歴史でよく語られるのは、アメリカ側のペリーと日本側の直接交渉の様子です。戦争をにおわせてアメリカとの交易を認めさせようとするペリーと、多くの情報をもって交易だけは避けようとする日本側のやりとりは大変興味深いものがあります。しかしこのとき戦っていたのは、ペリーとの交渉を任された応接団だけではありません。内政のトップである阿部正弘も、国内をまとめる戦いを始めていました。

幕府に迫る危機

阿部がペリーの来航で最も恐れたのは、国内の内部分裂でした。阿部はもともと鎖国を守りたいと考えていたものの、鎖国を続けたその後の未来は、日本の崩壊ということを予見していました。鎖国政策を固持すれば、アメリカとは戦争になります。戦争で負ければ、悲惨な条約を締結されてしまい、それこそ日本という国の維持ができなくなる、阿部にとってこれは最も避けなければならない未来でした。

かといって強引に鎖国政策を取り払って開国をすれば、国内の攘夷派(外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想)が黙っていません。こうした内部分裂も列強の標的となることを認識していた阿部は、国内の攘夷派をどうまとめていくのかということに苦心します。

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