2-3. 桜田門外の変につながった最大要因・安政の大獄
このような動きに対し、直弼は、すぐさま一橋派をはじめとした反対派への強烈な弾圧を開始しました。これが「安政の大獄(あんせいのたいごく)」と呼ばれるものです。
直弼は、戊午の密勅は天皇自らの意思で発せられたのではなく、水戸藩や一橋派と関係の深い者たちによるものであると断言しました。いくら幕府の意見と対立するとはいえ、天皇は不可侵の領域。それならば、水戸藩にすべての責任を押し付ける方が得策と考えたのです。
そして、一橋派と関係のある公卿たちを捕らえて断罪し、幕府を批判する諸藩とその藩士を捕らえ、投獄し、処刑したり、追放処分にしたりしてしまいました。その対象は皇族、公家、僧、藩主や浪人、学者、町人にまで及び、その数は100名を超えたのです。
これによって一橋慶喜は蟄居、その父で前水戸藩主の徳川斉昭は永蟄居となりました。また、幕末の志士を多く教えた吉田松陰(よしだしょういん)や、越前藩士・橋本佐内(はしもとさない)などもこの対象となり、処刑されたのです。
直弼による厳しく過激な弾圧は、一時的に反対派を静かにすることはできました。しかし直弼は、こうした者たちからは激しい恨みを買うことになったのです。これが、桜田門外の変の最も大きな直接的原因となりました。直弼は専制化しており、これは少々やりすぎたのかもしれません。
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2-4. 直弼に追いつめられた水戸藩
黒幕と決めつけられた水戸藩では、密勅を朝廷に返上するかどうかで藩内が揺れていました。
安政の大獄によって処罰者が続出した後、藩主・徳川慶篤(とくがわよしあつ/一橋慶喜の兄)は直弼から密勅の返納を強く求められ、もしできなければ水戸藩を改易(かいえき)するとまで脅されていたのです。改易とは、領地を没収された上、お家が無くなってしまうこと。武士にとっては何よりも避けたい事態で、不名誉中の不名誉なことでした。また、水戸藩の家老職についていた者たちが安政の大獄によって処刑されるなど、水戸藩は追いつめられていたのです。その上、密勅返納派と反対派の対立がエスカレートし、襲撃事件まで起きてしまうなど、藩内も混乱をきわめました。
そんな中、直弼の脅しと弾圧に憎悪を募らせた一部の過激な反対派は、密かに江戸へ向かいます。
彼らの目的はただひとつ、「井伊直弼の暗殺」でした。
3. ついに起きた桜田門外の変
水戸藩の過激派が自分の命を狙っているとは知らず、井伊直弼は安政7年3月の大雪の朝、江戸城に登城します。そして、桜田門のそばに差し掛かったところを暗殺者たちに取り囲まれ、あっけない最期を遂げることになりました。幕府を激震させた桜田門外の変が、ついに起きてしまったのです。
3-1. 直弼を仕留めるために練られた計画
江戸に向かった水戸藩過激派の藩士らは、江戸に1年余り潜伏しました。水戸藩としてもこの動きを察知して召喚状を送ったのですが、彼らが応じることはなかったのです。
幕府側の警戒が厳しくなったのを見て、彼らは宿泊場所を分散させ、直弼暗殺のために綿密な計画を練っていました。当初は直弼の側近・安藤信正(あんどうのぶまさ)や松平頼胤(まつだいらよりたね)なども暗殺のターゲットとしていましたが、これらはやむなく外し、直弼ひとりに狙いを定めたのです。
そして、4,5人を1組として連携し、先に供を討ち、籠の脇を守る者たちが慌てた隙に直弼を討ち、その首を取ることと決め、負傷したならその場で切腹することなど、直弼を確実に仕留めるために手筈を整えたのでした。
3-2. 実行犯たちの覚悟と直弼への憎悪
そして安政7年3月1日(1860年3月22日)、彼らは自分たちに共鳴した薩摩藩士らと集い、3日に暗殺を決行すると申し合わせました。翌2日には、藩が自分たちの凶行に連座して罪を問われないようにと除籍願いを出し、藩士ではなく浪士(浪人のこと)となったのです。
藩を抜ければ戻ることも難しいわけですから、彼らは相当な覚悟を持って臨んだと考えられますね。
「井伊直弼に独占され、間違った方向に向かっている幕政を正しい方向に戻すためには、直弼を排除するしかない」という結論に達した彼らを止めることができる者など、もはや誰もいませんでした。急進的な攘夷論者である彼らは、やむを得なかったとはいえ独断に近い形で開国に走った直弼への怒りを爆発させていったのです。
3-3. 桜田門外の変当日:薄かった彦根藩の警護
3月3日、江戸は早朝から大雪が降っていました。
彦根藩井伊家の藩邸から桜田門までは、距離にして300m~400m強。そこを出発した直弼らの行列は、総勢60人ほどでした。沿道には見物の客が詰めかけ、武鑑(ぶかん/大名や役人の名前、石高や家紋を記した年鑑のようなもの)を手に、行列に見入っていました。浪士たちはこれに紛れこんだのです。
彦根藩側にも油断がありました。まさか、江戸のど真ん中で大名行列が襲撃されるとは考えていませんでしたし、江戸幕府開設以来、そんなことは起きたことが無かったのです。とはいえ、直弼のもとには、市中で不穏な動きがあることや、変の当日未明にも直接警告が届いていました。しかし、直弼はそれを無視したのです。警護を強化しては、自分が動揺していると批判されると考えたのでした。
3-4. 襲い掛かる浪士たちが直弼を殺害
警護の薄い行列に、18人の水戸浪士たちは一気に襲い掛かりました。
大雪で視界が悪かった上に、彦根藩士たちは合羽を着ていて身動きが取れませんでした。念入りに刀を袋で覆っていたため、すぐに抜刀することもできなかったのです。
彦根藩士たちが次々に斬り伏せられていく中、直弼の籠にも刀が突き立てられました。瀕死の彼は、浪士たちの手で引きずり出されると、首を刎ねられたのです。どこからともなく銃弾が飛んできて籠を貫通し、直弼は動くことができなくなっていたという説もありますね。
血で染まった雪の上には、直弼の体や斬られた藩士たち、その手指や耳までもが落ちており、惨劇の恐ろしさを物語りました。
わずか十数分という、あっという間の襲撃事件が、桜田門外の変でした。
4. 桜田門外の変後の情勢
幕府の最高権力者である大老・井伊直弼が衆人環視の中で殺害された桜田門外の変は、世間に衝撃を与えました。と同時に、これはいわば内紛でもあったため、幕府の力は目に見えて弱体化していきます。結果的に、桜田門外の変は、討幕の機運を高め、幕府の終焉へとつながっていくのでした。