日本の歴史江戸時代

東北の一大藩「仙台藩」の歴史とは?わかりやすく解説!

現在宮城県と呼ばれている地域一帯は江戸時代には仙台藩と呼ばれており、伊達政宗の子孫たちが代々受け継いでいきました。 しかし、そんな伊達家はいろいろな苦難を乗り越えていき、そして江戸時代における有数の大藩として成長していくのです。 今回はそんな仙台藩について解説していきたいと思います。

伊達政宗の移封

image by PIXTA / 64274254

戦国時代における仙台は大崎氏と葛西氏が治めていました。しかし、米沢を本拠地としている伊達家が伊達政宗の時代となると勢力を伸ばしており、宮城県一帯は伊達家の配下になるか伊達家の影響を受けるようになっていきます。

しかし、1590年に天下統一を目指す豊臣秀吉は小田原の後北条を降伏させて関東地方を手に入れると宇都宮でいわゆる奥州仕置を行うことになります。

伊達政宗はこの少し前に会津の蘆名氏を討ち滅ぼして約120万石の広大な領土を実現していましたが、奥州仕置により会津の地域は没収。さらにその直後の行われた葛西大崎一揆に対して政宗の関与が疑われてしまい、改易にはならなかったものの、秀吉は伊達氏の本拠だった信達地方や置賜地方を取り上げてその代わりにおよそ現在の宮城県中南部に当たる部分を政宗の領土とします。そしてこの領土がいわゆる仙台藩となっていきました。

仙台藩の成立

1598年に秀吉がなくなると政宗は徳川家康に接近。1600年に会津の上杉景勝をねらった会津征伐が行われることになると政宗は家康から上杉景勝に対する備えを求められました。この時、家康は政宗に対して、秀吉に没収された伊達郡、置賜郡などの旧領を回復して所領を60万石から100万石にまで加増するといういわゆる百万石のお墨付きを得ることになります。

政宗は旧領を回復するために一生懸命戦い、白石城の戦いで上杉勢を破って山形の最上義光を助けましたが、その一方で政宗は同じ徳川方である南部利直の領地で、和賀忠親を支援して岩崎一揆を起こさせました。

しかし、この一揆は失敗。さらにはこの一揆の扇動によって旧領の回復はなしとなってしまい、その代わりに刈田郡2万石が与えられることになります。また、一揆を扇動して警戒されることになった政宗は、有力大名の中で最後まで帰国を許されず、江戸の天下普請に動員されるなど踏んだり蹴ったり。

しかしめげずに政宗は元々あった城を改築して仙台城と改称。それまでの居城としていた岩出山城からここに移り城下町も建設。こうして正式に本拠地が仙台となり、政宗を初代藩主とする仙台藩(62万石)が成立したのです。

仙台藩の外交政策

こうして仙台藩が成立しましたが、太平の時代となった今でも正宗も野望はとどまることを知りません。その代表的な例が仙台藩とスペインとの太平洋貿易でした。1613年に仙台領内でサン・ファン・バウティスタ号というどでかい帆船を建造。

当時世界最大の植民地帝国であったスペインとの貿易を行うことによって仙台藩を裕福な藩に変えようとしていたのです。また、政宗はその先にスペインとの同盟を行うことで幕府を倒そうとした説もあります。政宗は家臣の支倉常長を外交使節に任命すると、支倉常長を中心とする慶長遣欧使節をメキシコやスペインへ派遣。

しかし、その翌年に幕府はキリスト教の禁教令を出してしまい、キリスト教の宣教師の弾圧を始めます。この結果日本との貿易や同盟は望めないと感じたヨーロッパの国々特にスペインは日本との同盟を行わないと決めてしまい、仙台藩によるスペインとの外交交渉は失敗に終わった。

そして、幕府がオランダ以外のヨーロッパとの貿易をしなくなってしまい、政宗の野望は潰えてしまったのです。

仙台藩最初の危機

image by PIXTA / 49971356

まさしく山あり谷ありの政宗の時代でしたが、なんだかんだで仙台藩は日本有数の大藩としての地位を確立します。しかし、そんな立場になったおかげで幕府から目をつけられてしまい、さらには仙台藩の中での御家騒動で一時期改易に追い込まれることになりました。

綱宗隠居事件

政宗の孫であり、仙台藩3代藩主の伊達綱宗は政治を全く行わず、さらには遊郭に入り浸るほどの放蕩三昧であったため、綱宗の叔父にあたる伊達宗勝がなんとかして綱宗をちゃんとさせるために老中首座の酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴しました。
しかし、それでも綱宗は行動を改めることをしなかったことでついに1660年に幕府によって幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられられてしまい、まだわずか2歳の伊達綱村が就任しました。

伊達騒動の本格化

綱村が藩主になって一件落着に見えましたが、仙台藩の政治に伊達宗勝や柳川藩の立花忠茂の家臣であった奥山常辰が政治を行い権勢を振るうようになります。しかし、権力欲に取りつかれてしまった宗勝は自分が寵愛していた目付を奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行いました。肝心の藩主はまだ政治もわからない子供であり、宗勝はこのことを利用して仙台藩を乗っ取ろうとしていたのです。

これに奉行の原田宗輔も加担して自身にその中で諫言した里見重勝の一族を断絶に追い込むなどの振る舞いを見せたおかげで仙台藩では大混乱が起こり、ついに仙台藩の家老たちは伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになりました。

1671年。幕府からこの騒動についての説明をするために家臣である柴田朝意が江戸に向うことに。3月7日には柴田と原田が老中板倉重矩に呼ばれでこの騒動に関する審議が行われることになりました。しかし、仙台藩を取り潰さないことはあらかじめ決められており、そのことをわざわざ隠居した綱宗や藩主の伊達綱村に送っています。

同年3月27日に2度目の審問が行われますが、今度は大老である酒井忠清によばれて幕府の重鎮が集まるなかで伊達騒動の説明を行います。しかし、その直後に伊達騒動の混乱で原田宗輔が暗殺される事態に。こうして伊達騒動は終結に向かうことになります。

伊達騒動の顛末

原田宗輔を含めて関係者が死亡したこの事件の事後処理が行われることになるのですが、仙台藩自体は前々からの取り決めや藩主がまだ幼少のためお構い無しとされます。その一方でこの騒動の責任を問われた宗勝は処罰を受けることになり、自身が治めていた一関藩は改易されることになり、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家も処罰を受けることになりました。

この騒動が一件落着した後藩主としての権力を強めようとした綱村は、宗勝と同じく自身が寵愛していない側近を藩の重職に据えるようになります。
これに対して元々からの古参の家老たちはこの状態だとまずいとした諌言書を綱宗に提出しますが聞き入れられなかった。このため1697年に幕府に綱村の隠居願いを提出しようと試みます。

そのため、綱宗の行動を改めるようにした諫言書は提出されることになり、ついに1703年にはこの騒動が5代将軍徳川綱吉の耳に達し仙台藩が改易されるのではないかとされてしまいます。このため老中の稲葉正往は綱村に状況を説明し隠居を勧告。流石に伊達家が取り潰されることは敵わないとして綱村は幕府に対して隠居願いを提出してこの伊達騒動はついに終結することになります。その後綱村の跡継ぎとして従弟の伊達吉村が5代藩主となりました。

次のページを読む
1 2
Share: