新撰組結成の背景
1853年のペリー来航は日本人の太平の眠りを覚まさせました。日米和親条約や日米修好通商条約を結び開国路線に転じる幕府に対し、諸藩の尊皇攘夷派は激しく反発。それを弾圧した井伊直弼が暗殺され、幕府の威信は大きく低下しました。混乱状況の中、台頭したのが薩摩藩や長州藩です。彼らは天皇や朝廷に働きかけ、政局を有利にしようと画策。京都を中心に激しい駆け引きが繰り広げられます。こうした幕末の不穏な情勢の中、新選組が結成されました。
ペリーの来航と日本の開国
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは浦賀に来航。開国を求めるアメリカ大統領の書簡を幕府に提出し、来年の回答を要求しました。老中阿部正弘は諸大名に意見を求めます。
1854年、予告どおりペリーが再度日本に来訪しました。幕府はペリーと交渉し、日米和親条約を締結。下田と箱館の開港を約束します。
日米和親条約にもとづいて乗り込んだアメリカ総領事ハリスは、幕府に通商条約締結を要求しました。おりしも、中国ではアロー戦争が勃発。アヘン戦争に続き、イギリス・フランス連合軍は清国を圧倒していきます。
ハリスは、アヘン戦争終結後にイギリス艦隊が日本を攻撃する可能性を示唆。早期にアメリカと通商条約を結ぶべきだと主張します。結局、幕府はハリスとの間で日米修好通商条約を締結しました。
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高まる尊王攘夷運動と京都に集まる志士たち
日米修好通商条約が発行し、日本と諸外国の貿易が始まると日本国内の物価は高騰します。日本人商人が外国商人に売るため商品を大量に購入。日本国内での商品生産が追いつかず物価が高騰したのです。
生活が苦しくなった人々は外国人を追い出せという攘夷思想を強く支持しました。各地で外国人を襲撃する異人斬りが横行したのもこのころです。
攘夷思想と結びついたのが天皇を敬う尊王論。尊王論と攘夷思想の結びつきは外国人への反感と外国の言いなりになっているかに見える幕府に対する反発が形となって現れた結果といってもよいでしょう。
薩摩藩や長州藩をはじめ、実力を兼ね備えた有力藩(雄藩)の藩士などが天皇や朝廷を味方につけようと、京都の町を舞台に激しい駆け引きを繰り広げました。彼ら、政局を動かそうとする人々のことを志士といいます。幕末の京都には志士が集まっていました。
京都で活躍した雄藩
幕末の京都は様々な勢力の思惑が入り混じり、複雑怪奇な様相となっていました。渦中で活発に動いたのが長州藩です。尊皇攘夷を主張しつつも、禁門の変で敗れて以来、京都を追放されていました。そのため、長州藩の志士たちは京都での失地回復を狙って京都で工作活動を展開していました。
薩摩藩は幕府よりの立場でしたが、徐々に長州藩に接近。薩摩藩の志士たちも京都で朝廷や公家たちと接触を図っています。
幕府側で京都の治安維持に当たるのは京都所司代や京都奉行でしたが、もはや、彼らの力だけでは京都をコントロールするのが難しくなりました。そこで幕府は島津久光の要求に乗り、会津藩主松平容保を京都守護職に任命。会津藩の力で京都を制しようと図ったのです。
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