室町時代戦国時代日本の歴史

毘沙門天の申し子、軍神とも称された「上杉謙信」の生涯をわかりやすく解説

日本を代表する戦国大名は誰かという質問をされたとき、トップ5に入る人物の一人が上杉謙信ではないでしょうか。初陣となった栃尾城の戦い以来、生涯不敗。宿敵武田信玄との川中島の激闘や、天下人織田信長の軍団を手取川で打ち破るなど戦国最強の名をほしいままにした上杉謙信は軍神、毘沙門天の生まれ変わりとも称されます。今回は、戦国を戦い抜いた上杉謙信の生涯についてわかりやすく解説します。

家督を相続する前の上杉謙信

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上杉謙信が生まれたころ、越後国では守護の上杉氏の力が衰え守護代の長尾氏の力が強まっていました。謙信は長尾為景の子として生まれます。父が隠居し、兄の晴景が当主となると謙信は林泉寺に入れられました。しかし、父の死によって状況は大きく変化。転覆して栃尾城の城主となります。栃尾城の戦いで見事な戦いぶりを見せた謙信は、周囲からの期待を一身に集めることになりました。

上杉謙信の誕生と長尾家の状況

1530年、上杉謙信は越後守護代の長尾為景の四男として生まれました。幼名は虎千代といいます。寅年生まれのため、虎千代と名づけられました。

このころ、越後国でも下剋上の風潮が見られるようになります。そのため、内乱が絶えず、越後守護代の為景は内乱鎮圧のため各地を転戦しました。

やがて、力をつけた為景は越後守護の上杉房能と対立。為景は房能を滅ぼし、上杉定実を新たな守護に擁立しました。為景の力が強すぎたため、定実は為景の傀儡(かいらい)とならざるを得ず、越後国の実権は為景が握ります。

これに怒った関東管領の上杉顕定が越後に攻め込むと、一時、越中に逃れますが体勢を立て直して反撃。為景は長森原の戦いで上杉顕定を打ち破り、敗死させました。

為景の力は強大化しましたが、東西に広い越後国を完全平定することは出来ず、1536年に隠居。当主の座には晴景がつきました。

林泉寺での修行と師である天室光育

為景が隠居した1536年、虎千代は長尾家の菩提寺で春日山城下にあった林泉寺に預けられます。以後、虎千代は林泉寺の住職天室光育のもとで修行に励みました。

戦国時代、漢文を読むことができ、教養を持った禅僧は外交や子弟教育の場で重要な存在となります。武田信玄は美濃斉藤家とのパイプを持つ快川紹喜を恵林寺の住職として尊崇しました。伊達政宗は幼少期、禅僧の虎哉宗乙の元に預けられ、修行を積みます。

上杉謙信にとっての天室光育は、親であり人生の指南役だったのかもしれません。後年、謙信が国を捨てて出家しようとしたとき、謙信は天室光育に手紙を書いて、家臣たちに出家の趣旨を説いてもらうよう頼んだほどです。虎千代は7歳から14歳まで林泉寺で修行しました。

初陣となった栃尾城の戦い

1543年、虎千代は14歳のときに元服。景虎と名乗りました。彼の名前は何度か変化しますので、必要に応じてそのときの名前を記述します。元服した景虎は、現在の長岡市にあった栃尾城に入りました。

戦がことのほか強かった為景と比べると現当主の晴景は病弱で、弟はまだ14歳の若輩。そのことを侮った反守護代派が栃尾城に攻め込みました。

景虎は兵を二手に分け、一隊で城を守り、もう一隊で敵本陣を急襲します。敵は少数で若輩の城主と侮っていた反守護代派は混乱に陥りました。すかさず、景虎は城にいたもう一隊を出撃させ、一気に敵軍を駆逐します。

景虎は華々しく初陣を飾り、反守護代派を沈黙させました。この栃尾城の戦いは、上杉謙信不敗伝説の幕開けとなります、

若き越後国主、長尾景虎

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栃尾城の戦いは若き城主、長尾景虎の武名をいやがおうにも高めます。その一方で、病弱で春日山城に引きこもっているかに見える兄の晴景は国人衆からの人望を失い、長尾家当主は景虎へと交代。越後を統一した景虎は上杉氏の名跡を継ぎ、関東管領として関東や信濃に出兵。北条氏康や武田信玄と戦いました。その一方で、越後国人衆の謀反や内乱に苦しみ、春日山城を出奔して出家しようとさえします。

長尾家の家督相続と越後統一

1545年、越後の有力国人である黒田秀忠が謀反を起こし、春日山城に攻め寄せました。景虎は黒田討伐を命じられます。黒田秀忠は一度降伏しますが、再び謀反。景虎は二度目の謀反も鎮圧し、黒田氏を滅ぼしました。

この一件で、本来、先頭に立って事態を収拾すべき晴景が何もせず傍観していたことに対して、国人衆の一部は愛想を尽かしてしまいます。景虎を支持する一派は、晴景に家督を景虎に譲って隠居するよう迫りました。

あわや、越後を二分する内乱になるかとおもわれましたが、守護の上杉定実が両者の間に入って調停。晴景が景虎を養子として隠居するということで皆を納得させます

こうして、景虎は長尾家当主となり春日山城に入城しました。このとき、景虎19歳。まだまだ、若さあふれる青年武将ですね。

1550年、上杉定実が子を残さずに死去すると、景虎は13代将軍、足利義輝の命により、越後国主を代行することとなります。このことを不満に思う反対派を打ち破り、景虎は1551年に越後を統一しました。

関東管領就任と小田原攻め

景虎が越後統一を目指していたころ、関東では北条氏の力が急速に増していました。1546年の河越の戦いで圧倒的多数の敵軍に勝利した北条氏康は関東で強い力を持っていた2つのうち、扇谷上杉家を滅ぼし、武蔵を勢力圏に加えます。さらに、もう一つの上杉氏である関東管領の山内上杉家を圧迫しました。

関東管領とは、室町幕府が関東を支配するために置いた鎌倉府のナンバー2で、関東全土に号令を下せる役職でしたが、北条氏康の前では無力な古看板でしかありません。

北条氏康に上野国の領国を奪われた山内上杉家の上杉憲政は越後に逃れ、景虎の援助を請いました。1560年、景虎は北条氏康を倒すため本拠地小田原城に攻め込みます。景虎は関東の諸将を率いて盛んに小田原城を攻めましたが落とすことは出来ません。

この間、景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉氏の家督と関東管領の職を継承。以後、上杉景虎となります。結局、景虎は小田原を落とせず、越後に引き上げました。

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