ヨーロッパの歴史

第一次世界大戦後に行われた「ヴェルサイユ条約」とは?わかりやすく解説

第一次世界大戦後にフランスのヴェルサイユ(ベルサイユ)宮殿でおこなわれた会議では戦争の講和会議がおこなわれ、その結果としてヴェルサイユ講和条約が調印されました。しかし、このヴェルサイユ条約の内容は欧米先進国の植民地にとっては期待外れのものになっていました。多くの植民地では独立が期待されていたからです。 この植民地の期待を裏切ったヴェルサイユ条約について解説します。

第一次世界大戦の事後処理をおこなったヴェルサイユ条約

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第一次世界大戦はドイツの降伏で終わり、1919年9月にフランスパリのヴェルサイユ宮殿で終戦処理のために会議が開催され、その結果、ヴェルサイユ条約が締結されました。

このヴェルサイユでの会議では、戦争後の処理としてドイツなどの敗戦国の領土、賠償問題のほか、関係国の植民地の独立問題が話し合われると期待されていたのです。しかし、実際には、バルカン半島諸国を除くとほとんどの植民地の独立は認められず、植民地の人々の期待は裏切られ、落胆に変わりました。

このヴェルサイユ条約において何が期待され、どのような結果になったのかについて見ていきましょう。

ヴェルサイユ条約に植民地の人々は何を期待したのか

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第一次世界大戦は、ヨーロッパ全域だけでなく、中東、東アフリカ、東アジア、南アジアなどでもドイツなどの枢軸国(オーストリア、オスマン帝国)との戦闘がおこなわれました。そのなかで、イギリスは中東やインドなどで独立を餌に連合国側に味方して戦うように植民地などに要請をしたり、密約を結んだりしていたのです。そのため、それらの地域ではヴェルサイユ条約で独立が認められることを期待していました。

また、第一次世界大戦中には、連合国側のロシアが民衆による共産革命によって戦線を離脱し、皇帝による帝政を終らせており、植民地の人々に期待を持たせています。さらに、戦争も後半になって連合国側で参戦したアメリカ合衆国のウィルソン大統領は、戦争中にもかかわらず、戦後の平和問題に対して提言を発表していました。戦争の原因には植民地の保有問題があり、それぞれの植民地の人々は、自分たちのことは自分で決めるべきであるとしていたのです。すなわち、民族自決主義を戦後の和平の課題として「14ヶ条の平和原則」を提言として発表していました。それによって植民地の人々は大きな期待を持ってヴェルサイユ宮殿での会議を注目していたのです。

ヴェルサイユ条約の背景と欧米先進国のエゴ

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ヴェルサイユ講和会議では、連合国側のヨーロッパ大国(イギリス、フランス、ベルギーなど)などが参加し、戦後の処理問題を討議しました。そこで決まった国際的な枠組みはヴェルサイユ体制と言われました。しかし、そこで話し合われたのは、大国のエゴを優先させるものだったのです。このヴェルサイユ条約の背景と実際の結果について見てみましょう

中東とインドの植民地事情

ドイツの枢軸国側となったオスマン帝国を牽制し、東ヨーロッパ、バルカン半島の戦局を有利にするために、イギリスは中東の諸部族と密約を結び、大戦後の独立を約束していました。また、オスマン帝国を背後から牽制するために、植民地のインドに対して独立を餌に出兵を促してもいたのです。

しかし、ヴェルサイユ会議ではイギリスはこれらの約束を反故にして独立を認めませんでした。それを認めてしまうと、アフリカや東南アジアなどに多くの植民地を持つヨーロッパ諸国に影響を与えてしまうからです。

欧米先進国は自分たちの利権維持を優先

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欧米先進国だけでなく、参戦してドイツの中国、太平洋のドイツ領を占領し、朝鮮半島を植民地にしていた日本もヴェルサイユ条約でそれらを認められます。これらの結果を日本は支持し、租借地や植民地の維持、拡大をおこなったため、中国、朝鮮半島では、五・四事件、三・一事件などの反日運動が展開されました。

ヨーロッパ諸大国は、自分たちの植民地という利権を手放そうとせず、そのために日本などの占領地、植民地などを認めたのです。また、民族自決を提言していた米国も、ヨーロッパ諸国の政策には干渉しないというモンロー主義が外交の基本方針になっていました。そのため、ウィルソン大統領の意向は横において、ヨーロッパ諸国との対立を望まず、結果を支持したのです。そして国際連盟への参加を見送るしかありませんでした。

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