その他の国の歴史中東

欧亜にまたがる大帝国となった「オスマン帝国」をわかりやすく解説

ヨーロッパとアジアの二つの大陸を結ぶイスタンブール。この街を首都としてアジア・ヨーロッパ・アフリカの3大陸に支配領域を広げる巨大帝国がありました。オスマントルコ帝国です。最盛期には地中海の東半分とバルカン半島、イラクまでの広大な地域を支配し、ヨーロッパのキリスト教世界にとって最大の強敵だった国でした。今回はオスマン帝国の建国から最盛期、衰退期、滅亡までをわかりやすく解説します。

オスマン帝国の発展

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今をさかのぼること約700年。現在のトルコにあたる小アジア(アナトリア高原)は小さな国がたくさん集まった寄り合い所帯のような状態でした。オスマン帝国もその群小国家の一つにすぎません。小さな国でしかなかったオスマン帝国が小アジアを統一し対岸のバルカン半島に進出していく様子についてまとめます。

オスマン帝国の誕生

小アジアはかつてビザンツ(ビザンチン)帝国の領土でした。11世紀にトルコ系のセルジューク朝が小アジアを制圧。これがきっかけとなってヨーロッパから十字軍が派遣されました。

十字軍が去った後、セルジューク朝は弱体化。小アジアは小さな国々に分裂していきました。オスマン=ベイが建てたオスマン帝国もその一つにすぎません。オスマンや二代目のオルハンは周辺の小国やビザンツ帝国との戦いに勝利し徐々に領土を拡大します。

オルハンの時代、小アジアのブルサを占領しこの地を首都と定めました。オルハンは遊牧民の寄せ集めだった部隊を整備し軍団として再編成。新通貨も発行して国の形を整えます。ギリシアから小アジアを納めていたビザンツ帝国は当時内紛状態にあり、オスマン帝国の拡大を抑えることができませんでした。

バルカン半島への進出

オスマン帝国3代目のスルタンとなったムラト1世イェニチェリ軍団を創設し軍事力を強化します。イェニチェリとは、征服地のキリスト教の少年を強制徴用して編成された清軍団です。鉄砲などで武装した歩兵で、皇帝の直属軍として征服地の拡大に貢献しました。

当時の周辺諸国にはイェニチェリのような大規模な常備軍はなく、オスマン帝国の軍事的雄の要因となります。1362年、ムラト1世はビザンツ帝国の内紛に乗じて帝国第二の都市アドリアノープルを占拠。エディルネと改称し新たな首都としました。

また、1371年にはブルガリア王国の軍を撃破し征服。1389年、オスマン帝国の急拡大に危機感を覚えたセルビアを中心とするバルカン半島のキリスト教国家は連合軍を編成しオスマン帝国とコソヴォの地で戦います。結果はオスマン軍の勝利でした。

アンカラの戦い~オスマン帝国はじめての挫折~

コソヴォの戦いの後に暗殺されたムラト1世の跡を継いだのがバヤジット1世です。彼はイェニチェリ軍団を強化し強力な君主権を築き上げます。バヤジット1世の得意技は速攻です。あまりに早い彼の軍事行動は「電光」とも称されました。

ブルガリア・セルビアが敗北したのち、バルカン半島でオスマン帝国に対抗できるキリスト教国はハンガリーのみでした。ハンガリー王ジギスムントは西欧諸国に十字軍を呼びかけます。1396年、バヤジット1世率いるオスマン帝国軍とハンガリー・西欧連合の十字軍がドナウ川中流域のニコポリスで激突。オスマン軍はイェニチェリの力もあってハンガリー・西欧連合を圧倒しました。

ちょうどそのころ、西アジアで急成長していたのがティムール帝国です。皇帝ティムールはその矛先をオスマン帝国にも向けてきました。1402年、バヤジット1世はオスマン帝国軍とアンカラで交戦。戦いは機動力に勝るティムールの圧勝に終わりました。バヤジット1世はティムールにとらえられたのちに自殺。オスマン帝国は滅亡寸前に追いやられます。

オスマン帝国の再興と全盛期

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アンカラの戦いで敗北し、バヤジット1世を失ったオスマン帝国は滅亡の危機にありました。幸いティムールが明と戦うために軍を東に向けたためオスマン帝国は滅亡を免れます。しかし、以前の勢力を回復するためには約50年の歳月を費やしました。体勢を立て直したオスマン帝国は世界帝国へと発展します。

コンスタンティノープルの攻略

新たにスルタンとなったメフメト2世はビザンツ帝国の完全征服を目指します。ビザンツ帝国は既にほとんどの領土を失い、首都コンスタンティノープルを残すのみでした。メフメト2世は10万以上の軍を動員しコンスタンティノープルを攻撃します。

大城壁をもったコンスタンティノープルの攻略は容易ではありません。メフメト2世は2つの方法で攻略にあたります。一つ目は巨大な大砲である「ウルバンの巨砲」の使用。もう一つは海側からの攻略でした。海側から攻撃するためにメフメト2世は艦隊の一部を陸揚げして金角湾に運び込むという驚きの一手を使ってビザンツ帝国軍の虚を突きます。

1453年、陸と海からの猛攻撃によってコンスタンティノープルは陥落しました。メフメト2世はコンスタンティノープルをイスタンブルと改め、帝国の新しい首都としたのです。今までオスマン帝国が攻略できなかったコンスタンティノープルを攻め落としたのでメフメト2世は征服王と呼ばれました。

オスマン帝国の全盛期

16世紀初めにスルタンの位についたセリム1世はイスラム世界での勢力拡大を行いました。1514年のチャルディランの戦いではイェニチェリの鉄砲隊を用いてサファヴィー朝イランの騎兵隊を打ち破っています。1517年にはエジプトを支配していたマムルーク朝を滅ぼし、豊かなエジプトを領土に加えました。

この時、オスマン帝国はマムルーク朝が支配していたメッカやメディナを手に入れ、メッカ・メディナの保護者と称するようになります。セリム1世の跡を継いだスレイマン1世はヨーロッパへ勢力を拡大。1526年のモハーチの戦いでハンガリーに勝利し領有。1529年には神聖ローマ皇帝カール5世のおひざ元であるウィーンを包囲するなどヨーロッパ世界にオスマン帝国の力を見せつけました。海ではプレヴェザの海戦に勝利して東地中海の制海権を得ます。

スレイマン1世は東方のサファヴィー朝との戦いにも勝利してオスマン帝国の最盛期を築き上げました。

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