フランス革命の背景
絶対王政下のフランスでは旧制度(アンシャンレジーム)の矛盾があらわになっていました。特権を持った貴族や聖職者と重税にあえぐ市民たちの間で対立が深まったのです。国王ルイ16世はテュルゴーやネッケルを登用して財政改革を図りますが、貴族や聖職者の反対にあいなかなかうまくいきません。市民たちは自分たちだけが重税を負担するのはおかしいと感じていました。
旧制度(アンシャンレジーム)に対する不満
18世紀のフランスには旧制度とよばれる身分制度がありました。国王を頂点とし、それを支える第一身分・第二身分と支配される立場にある第三身分によって構成されます。
第一身分は教会の司祭・司教といった聖職者たちで人口の0.4%。第二身分は貴族階級で人口の1.6%。全人口のわずか2%がその他を支配するいびつな状態でした。第一身分や第二身分は税負担がなく、年金を受け取ることができます。さらに、官職や土地を独占していました。
それに比べて第三身分である市民たちは納税の義務があるのに政治に参加する権利はまったくありません。特に、経済的に成長した富裕な市民たちは大いに不満でした。のちに書かれたシェイエスの『第三身分とは何か』では、第三身分とは全てであると書かれています。国の富を抱え、納税の義務もない特権身分に対する反感は高まる一方でした。
フランスの財政難と貿易赤字
18世紀は植民地戦争の時代でした。特にイギリスとフランスはことあるごとに対立。第二次百年戦争とまで呼ばれました。このころ、イギリスとフランスは競って海外に植民地を作っています。戦いはイギリスの有利に進み、戦うたびにフランスは植民地を失っていきました。特に、7年戦争の講和条約であるパリ条約では北アメリカの植民地の大半を失います。
1775年のアメリカ独立戦争はイギリスに反撃する絶好のチャンスでした。フランスはアメリカ独立派を支援。戦いは独立派の勝利に終わりますが、この時の支援はフランス財政を大きく悪化させました。度重なる戦争でフランスの財政は限界を迎えたのです。
また、産業革命を達成したイギリスからは多くの安い製品がフランスに輸出されました。貿易はフランスの赤字となり財政をさらに悪化させます。財政難に苦しんだフランス王ルイ16世はテュルゴーやネッケルを登用しますがうまくいきませんでした。
啓蒙思想の広がり
啓蒙思想は18世紀にフランスやドイツに広がった思想のことです。本能や感情に流されず、道理に基づいて判断する理性を重要だと考えました。啓蒙思想は伝統的であるという理由だけで続いている偏見や慣習、不合理な社会制度を批判します。
第三身分の人々は啓蒙思想に基づいて特権階級を守る旧制度の矛盾を追求しました。ルソーは『社会契約論』で社会は自由で平等な人間同士の契約(約束)によって作られると主張。権利は人民にあると考えました。
モンテスキューは全ての権力が一人によって握られているのは危険だとして、政治を行う行政と法律をつくる立法、裁判をする司法を分けるべきだとする三権分立を主張します。
こうした考え方はフランス革命に大きな影響を与えました。もはや、市民たちはかつてのように王や特権階級のいいなりにできる存在ではなくなったのです。
革命の始まり
財政難に苦しむルイ16世は税を徴収するために174年ぶりの三部会を招集しました。三部会では各身分が自分の主張を曲げずに対立が継続。第三身分の代表は、国民議会の成立を宣言しました。その後に起きたバスティーユ牢獄の襲撃からフランス革命は加速度的に進み、あっという間に絶対王政は崩壊します。
国民議会の設立と球戯場の誓い
1789年、ルイ16世はフランス伝統の議会である三部会を招集しました。ルイ13世が三部会を停止してから174年ぶりの招集です。三部会では第一・第二身分と第三身分が議決の方法を巡って激しく対立。第一・第二身分は身分別の議決を主張しました。これだと、第一身分と第二身分が協力すれば第三身分を抑えることができます。
第三身分は一人一票で全員が投票する方法を主張。第一身分と第二身分がそれぞれ300人ずつ、第三身分は600人の代表者を送り込んでいたので、一人一票なら第三身分にも勝機はあります。結局、議決方法をめぐる対立は収まりません。
業を煮やした第三身分は国民議会の設立を宣言。ルイ16世が三部会の議場を閉鎖したため第三身分はヴェルサイユ宮殿の球戯場に場所を移し、憲法制定まで解散しないことを誓いました。これを球戯場(テニスコート)の誓いといいます。
国民議会の活動とバスティーユ監獄の襲撃
国民議会は第三身分を中心につくられた憲法制定を目的とした議会です。国民議会は封建的特権の廃止を行いました。これにより自由のない農民である農奴の制度や領主が持っていた裁判権、教会におさめる十分の一税などが廃止されます。ただし、農奴が納めていた税金は無償廃止ではなかったので不満が残りました。
国王ルイ16世は国民議会の動きを封じるため全国から軍を集めます。その動きを知ったパリ市民たちはパリ市内にあるバスティーユ牢獄を襲撃しました。バスティーユ牢獄は政治犯を収容する施設で絶対王政の象徴とみなされていたため襲撃されたのです。バスティーユ牢獄襲撃から1週間後、各地で大恐慌よばれる農民反乱が勃発。騒乱は互いに関連しつつ拡大の一途をたどりました。