フランスブルボン朝ヨーロッパの歴史

ユグノー戦争を終結させナントの王令を発布した「アンリ4世」を元予備校講師が分かりやすく解説

2010年12月、フランスの法医学チームは、ある頭蓋骨の鑑定結果を公表しました。頭蓋骨の主はフランス王アンリ4世。フランス革命の時に墓が暴かれ、遺体が分断されたと伝えられた王です。アンリ4世はフランス国内の宗教戦争であるユグノー戦争を終結させ、ナントの王令を発布しました。国民的人気が高く、紙幣にもなったことがある王の頭蓋骨とあって、高い注目を浴びます。今回は、フランス屈指の名君と称えられるアンリ4世について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

ヨーロッパを揺るがした宗教改革

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アンリ4世が生きた16世紀、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れていました。ローマ教会が発行していた贖宥状(免罪符)に反対したルターは、教会に「九十五か条の論題」を掲示し、ローマ教会と対立します。スイスでも、カルヴァンを中心とする宗教改革が行われました。新旧両派の対立は、やがて大規模な戦争となります。1555年、アウクスブルクの宗教和議でひとまず宗教問題は決着しますが、カルヴァン派は認められませんでした。

ルターによる「九十五か条の論題」の提示

ヴィッテンベルク大学の神学教授だったマルティン=ルターは、熱心に聖書を研究していました。このころ、ローマ教皇レオ10世は、サンピエトロ大聖堂の修築費用などを捻出するため、ドイツで贖宥状を発行します。教会が発行する贖宥状を買うと、来世の天国行きが保証されると宣伝されました。

ルターは、贖宥状について疑問を持ちます。研究対象である聖書には、贖宥状に関する記述はありません。ルターは、自らの疑問を「九十五か条の論題」と題して、教会の扉に張り付け公開質問しました。

1519年、ライプツィヒでルターと教会側のエックとの間で公開討論会が行われます。さらに、ルターは1520年に『キリスト者の自由』を著し、教会批判を繰り広げました。ローマ教皇はルターを破門します。ところが、ルターは教皇の破門状を焼き捨ててしまいました

ルター派とカルヴァン派

1521年、ルターは神聖ローマ皇帝カール5世によってヴォルムス帝国議会に召喚されます。カール5世はルターに自説の撤回を要求しましたが、ルターは拒否。カール5世はルターに帝国追放を宣言しました。

ルターは皇帝の手から辛くも脱出し、ザクセン選帝侯フリードリヒの保護を受けます。やがて、ルターはドイツ語訳の聖書を完成させ、一般の人々でも聖書を読めるようにしました。聖書は教会の独占物ではなくなります。

スイスではツヴィングリやカルヴァンが宗教改革を実行しました。カルヴァンは人間の救済は、あらかじめ神によって定められているという予定説を唱えます。同時に、現在の職業で生計を立てることを認めました。それまで、農業などに比べ卑しまれていた商工業者たちはこぞってカルヴァンの考えを支持。オランダ、イギリス、フランスなどに広まります。

アウクスブルクの宗教和約

1531年、ルターを庇護するザクセン選帝侯を中心としてシュマルカルデン同盟が結成されました。ルターやカルヴァンを信奉する人々をプロテスタント(新教)といいます。

1546年、シュマルカルデン同盟と、ローマ教会を擁護するカトリック(旧教)の神聖ローマ皇帝カール5世が戦いとなりました。それがシュマルカルデン戦争です。

戦争にあたってカール5世は、自分が国王を兼ねていたスペインにも出兵させました。オーストリア=ハプスブルク家とスペインが手を組むことで兵力においてシュマルカルデン同盟を上回ることに成功します。戦いは、カール5世の勝利に終わりました。

しかし、1552年、プロテスタント諸侯は再びカール5世と戦い、今度はカール5世に勝利。カトリックとプロテスタントは1555年にアウクスブルクの宗教和議を結びました。この和議で諸侯がルター派を信仰することは認められましたが、カルヴァン派は認められませんでした

フランスの宗教対立とユグノー戦争

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François Dubois[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

スイスでカルヴァンが宗教改革を行うと、フランスにもカルヴァン派が広まりました。フランスでカルヴァン派の新教徒はユグノーとよばれます。対立が深まったユグノーとカトリックはユグノー戦争と呼ばれる内戦を繰り広げました。サン=バルテルミの虐殺などで多くのリーダーを失うも、ユグノーたちはナバール王アンリをリーダーとして戦い続けます。ユグノー戦争後半は、王家、ナバール王、旧教派のギーズ公の全員がアンリだったので、三アンリの戦いと呼ばれました。

フランス国内の宗教事情

ドイツで宗教戦争が行われていたころ、フランスでもカトリックとプロテスタントの対立が深まっていました。プロテスタントのうち、フランスで有力だったのはカルヴァン派。フランスではユグノーと呼ばれていました。

ユグノーには商工業者が多く都市部と中心に多くの信者を獲得します。カルヴァン派の富の蓄財を容認する姿勢が商工業者の支持を受けたからでした。

16世紀後半になると、ブルボン家などがカルヴァン派を信奉するようになります。王位継承権を持つブルボン家がユグノーの一員となったことは、ユグノーに力を与えました。

一方、カトリックの重鎮は大貴族のギーズ公。1560年代に入るとブルボン家やコリニー提督らプロテスタント支持の貴族とギーズ公らカトリック貴族たちの対立が深まります。

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