ドイツヨーロッパの歴史

長編オペラを次々と作曲した偉大な音楽家「ワーグナー」を元予備校講師がわかりやすく解説

近代を代表する偉大な作曲家の一人にリヒャルト=ワーグナーがいます。ワーグナーの音楽に心酔する人々のことを「ワグネリアン」といいました。熱心なワーグナー愛好家であるワグネリアンはバイロイト祝祭劇場で今も公演されるワーグナーの楽曲を聞くために足しげくバイエルン州北部にあるバイロイトに通います。今回は多くの人に大きな影響を与えた音楽家、ワーグナーの生涯について元予備校講師がわかりやすく解説します。

1847年までのワーグナー

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ワーグナーの生涯はいくつかの段階に分けることができますが、今回は1848年の革命を軸とし、革命前と革命後に分けて解説します。革命前のワーグナーは紆余曲折がありながらもドイツの一王国だったザクセン王国の宮廷指揮者として腕を振るい、それまで演奏されることが希だったベートーヴェンの交響曲第9番に光を当てるなど音楽家として大いに活躍していました。革命前のワーグナーについてまとめます。

幼少期から少年期にかけて

1813年、ワーグナーはザクセン王国領のライプツィヒに生まれました。ワーグナーが生まれたころはナポレオン戦争の時代で、ワーグナーの父はフランス語を話せたためたびたび通訳として駆り出されたといいます。

ワーグナーの実父はワーグナーが生まれて間もなくこの世を去りました。そのため、母はルートヴィヒ=ガイヤーと再婚します。ワーグナーの一家はとても音楽好きで家庭内でよく演奏会が開かれていました。

ワーグナーに強い影響を与えたのはベートーヴェンです。ベートーヴェンの壮大な交響曲に触れたワーグナーは自分も大作を作り上げたいと思い音楽活動に打ち込みました。

ワーグナーに影響を与えた人物がもう一人います。それがウェーバーでした。1817年、ウェーバーはザクセン王国の首都であるドレスデンで宮廷歌劇場音楽監督に就任します。ワーグナーにとってウェーバーはあこがれの人でした。ウェーバーの影響を受けたワーグナーの関心は、次第にオペラなどに移ります。

最初の妻ミンナとの結婚

18歳になったワーグナーはライプィヒ大学で音楽を学びますが、ほどなく中退。その後は劇場指揮者としてヨーロッパ各地を転々とします。そのうちの一つであるマクデブルクという町で劇場指揮者をしていた時、女優のミンナ=プラーナーと出会って恋仲となりました。

劇団が解散し、ミンナがケーニヒスベルクに行くと、ワーグナーもミンナを追いかけて結婚します。しかし、結婚生活は不安定でした。夫のワーグナーは独占欲が強く、妻のミンナは奔放な女性で何度も恋人をつくっては駆け落ちしてしまうからです。

1837年5月にはミンナがワーグナーの前から姿を消してしまうということさえありました。また、ワーグナーの仕事も不安定です。ワーグナーが飽きっぽい性格で、「オレ様」気質があったため仕事が長続きしませんでした。

ちなみに、ワーグナーはミンナの死後にコジマという女性と結婚します。コジマはワーグナーの不遇時代を助けたリストの妻でした。不倫の末、再婚してしまうワーグナーの行動には驚かされますね。

 

リガ脱出と『さまよえるオランダ人』

若いころのワーグナーは浪費癖があり、借金まみれといってもいいほどの生活を送っていました。1837年、ワーグナーはドレスデンから帝政ロシア領となっていた現在のラトヴィア首都リガにわたり劇場指揮者となります。

ところが、1839年3月にリガの劇場を解雇されてしまいました。すると債権者たちはワーグナーから借金を取り立てようと彼のもとに殺到します。借金取りから逃れるためワーグナー夫妻はリガから秘密裏に脱出しロンドンへと向かいました。

脱出行の際にワーグナー夫妻が乗った船は嵐に見舞われます。この時の体験を取り入れて後日書かれたのが『さまよえるオランダ人』でした。

神罰によってこの世とあの世の境目である煉獄をさまよい続けるオランダ人船長の幽霊船に関する物語です。着想は1834年段階であったようですが、作品として完成したのは1842年、初演は1843年でした。

ザクセン王国宮廷指揮者となったワーグナー

1842年、29歳のワーグナーは大作オペラ『リエンツィ』を作曲します。全5幕からなる大作で、ワーグナー初期の名作の一つ。ドレスデンで1842年に行われた初演は大成功でワーグナーはオペラ作家として評価されるようになりました。

『リエンツィ』は14世紀のローマが舞台のオペラ。民衆の支持を得たリエンツィが政権を奪取するものの、最終的には民衆に裏切られて殺されてしまうというストーリーです。

ワーグナーは初演直前のリハーサルに参加して熱心に指導しました。当時のヨーロッパは1830年の革命と1848年の革命のはざまにある時代で、革命機運が高まっています。その中で民衆の支持で政権を握り、民衆の支持を失って殺されるリエンツィの物語は聴衆から大いに支持されました。

この成功で注目を浴びたワーグナーはザクセンの国立歌劇場管弦楽団指揮者にスカウトされます。

ワーグナーとベートーヴェンの交響曲第9番

ザクセン宮廷の指揮者となったワーグナーは毎年恒例の復活祭直前の日曜日の演奏会の演目でベートーヴェンの交響曲第9番の演奏を計画します。交響曲第9番は今でこそとても有名な曲ですが、当時はあまり注目されていませんでした。

ワーグナーが『第九』を知っていたのは少年時代からベートーヴェンのことが大好きで図書館からベートーヴェンの楽譜を借りてきては筆写していたからです。

ドレスデンの毎年恒例の演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのがお決まりでした。ワーグナーの『第九』演奏宣言に周囲は猛反対します。しかし、ワーグナーはパンフレットを作成して反対派を説得。さらに、『第九』の楽譜に改訂を加えます。

改訂といってもワーグナーの独創というよりも、ベートーヴェンが今のドイツに生きていたら、このように楽譜を改訂するだろうという前提で管楽器などを組み込みました。ワーグナーによる『第九』は大成功しました。

1848年以後のワーグナー

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宮廷音楽家として成功をおさめていたワーグナーの運命を大きく変えたのが1848年の革命です。革命に参加したワーグナーは宮廷指揮者の職を解かれお尋ね者となってしまいました。その間もワーグナーの音楽活動は継続し、「ローエングリン」や「タンホイザー」などが作曲されます。ワーグナーの国外追放が解かれたころ、ワーグナーは熱烈なワグネリアンとなるバイエルン王ルートヴィヒ2世と出会いました。王の力を借り、ワーグナーは自分の理想の音楽を作り上げます。

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