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現在でも日韓関係に影を落とす「三・一運動」とは

韓国の文大統領は、「三・一運動」の100年記念式典で、歴史を忘れるなと演説し、これに対して日本政府は不快感を表明しています。しかし、日本人の多くはこの「三・一運動」を知っている人は少なく、何が起こっているのかもわかっていません。最近の日韓関係は、いろいろな事件で悪化していますが、その背景をきちんと把握している人は多くありません。この、日韓関係に影を落としている「三・一運動」とその背景や詳細について解説します。

三・一運動とは何だったのか

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日本は、明治時代から朝鮮半島への介入を行い、1910年に日韓併合によって植民地化しています。朝鮮半島の京城に朝鮮総督府を置き、その際に、非常に強引なやり方で、土地や財産を没収したり、会社を起こせなくしたために、反発が強く、混乱が生じていました。

1918年には第一次世界大戦の終盤には当時のアメリカ合衆国のウィルソン大統領が、民族自決を訴えたことから、日本の強引な支配に対する反発が起こったのです。世界中の植民地では、独立機運が高まり、アジアでも、朝鮮半島の他、中国の五四運動が生じていました。

学生を中心に植民地化に対する反発が強まり、独立を叫ぶ運動が繰り広げられたのです。それは、朝鮮半島全体に広まり、1919年3月1日に学生や宗教指導者などを中心にが多くの人が京城(現在のソウル市)に集まってデモ運動が起こりました。これに対して、朝鮮総督府は、軍隊を動員して鎮圧したために、多くの逮捕者や犠牲者が出たのです。独立万歳運動とも言われています。

第一次世界大戦前のナショナリズムの台頭

20世紀前半の第一次世界大戦前まで、西欧先進国は、アジア、アフリカ、中南米などを植民地化していました。中南米などでは早くから独立運動が行われていましたし、ベトナムなどのアジアでも20世紀が始まる前から、独立を求める運動が生じ、ナショナリズム(民族主義)が高まっていたのです。

第一次世界大戦中に起きた民族自決運動

第一次世界大戦中には、イギリスなどは、戦いを有利にするために、フサイン・マクマホン協定を結びます。中東の部族などに、独立国家樹立を餌に味方につけようという動きをしたのです。それに、拍車をかけたのが、ロシア革命とウィルソン大統領の民族自決論でした。

ロシア革命とウィルソン大統領の「十四ヵ条の平和原則」

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1914年から始まった第一次世界大戦の最中に起きたのが、ロシアの共産革命でした。当初は、それまでの帝政から議会主義に移行していたとは言え、裕福な貴族と企業家を中心とした層が議会を牛耳っていたのです。それに反発したレーニンが率いる共産党(ボリシェヴィキ)が1917年に革命を起こして、ソビエト連邦が成立しました。その際に、彼らは「無賠償・無併合・民族自決」という三原則を提案して、第一次世界大戦から手を引いたのです。

さらに、当時のアメリカ合衆国のウィルソン大統領は、このソ連の三原則を評価しました。大国の植民地化政策に対する住民の反発があり、どの地域の人も自らの地域に関することは自ら決すべきであると戦争後の方向を「十四ヵ条の平和原則」として提案したのです。

ソ連の三原則に含まれる民族自決と、ウィルソン大統領民族自決はそれまでに高まっていた独立運動に大きな影響を与えました。そのため、植民地化が進んでいたアフリカ、中東、インド、東南アジア、中南米などではさらに独立機運が高まったのです。

民族自決機運は東アジアでも燃え上がる

この民族自決による独立運動は、東アジアでも高まります。日本の植民地になったばかりの朝鮮半島や、青島(チンタオ)などを自国の植民地にした日本に対する抵抗運動が行われるようになったのです。日本は、第一次世界大戦中に、宣戦布告してドイツの領地になっていた青島をわずかな出兵で簡単に手に入れ、領有権を認めるよう中国政府に要求していました。朝鮮半島では、1919年3月1日に多くの学生を中心とするデモ隊が京城に集まり、民族自決による独立を求めたのです。中国でも、同年の5月4日に同じく学生が中心になって反日運動のデモが発生しました。

当時の朝鮮半島は日本の総督府による弾圧が続いていた

日本は、1910年の日韓併合条約によって朝鮮半島を植民地化し、朝鮮総督府を設置して、植民地運営に乗り出しました。初代の総督には陸軍大臣の寺内正毅がなり、朝鮮国内に陸軍を入れて強引な植民地運営を開始したのです。

それに抵抗する人は軍部が厳しく弾圧し、多くの人々が路頭に迷いました当時の日本は日露戦争で予算を使い果たし、朝鮮半島で資産没収をして、その資金で満州(中国東北部)への進出と植民地化を行おうとしたのです。そのために、徹底した弾圧と搾取を行いました。

そのために強い反日運動が起きてしまい、三・一運動につながったのです。

三・一運動を招いた朝鮮半島での日本の行動

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日本の朝鮮半島に対する進出意欲は、明治時代に入って強まりました。西郷隆盛の征韓論に見られるように、早くからその意識が芽生えていたのです。それが最初に表面化したのが、1876年の江華島事件でした。その時から、三・一運動までの経緯を見てみます。

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