ヨーロッパの歴史

第一次世界大戦後に行われた「ヴェルサイユ条約」とは?わかりやすく解説

ヴェルサイユ条約の問題点

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第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約策定では、戦勝国のエゴが表面に出てしまい、ドイツやオスマン帝国、オーストリアなどの敗戦国の植民地のバルカン諸国のみの独立でした。そのなかにはオーストリアに併合されていたハンガリーの独立もあります。しかし、中東、アフリカのドイツ植民地は戦勝国の植民地となり、アジアの日本が占領した植民地も日本に引き継がれ、独立や返還は認められませんでした。唯一独立が認められたのは実質的に独立していたエジプトだけです。

また、戦後に大きな課題が残ったのが、ドイツのベルギー、フランスなどの占領に対する賠償金問題でした。フランス、ベルギーともにエゴを最大限に表に出して、国内産業が壊滅したドイツには支払い不能に陥るのが目に見えていた多額の賠償金を要求し、それが認められたことです。これは、ヒトラーのナチスの台頭を許すことになり、第二次世界大戦につながりました。

ヴェルサイユ条約のその後

ヴェルサイユ条約によってもたらされた戦後の世界はヴェルサイユ体制と呼ばれましたが、それはイギリス、フランスなどの旧来のヨーロッパ列強中心で進められたものでした。そのため、実際には、植民地だけでなく、アジアなどの市場開放を目指すアメリカなどには不満が残ったのです。

アメリカは、第一次世界大戦で大きな被害を受けていなかったものの、モンロー主義からほかのヨーロッパ列強国と歩調を合わせて約束していた植民地の独立を認めませんでした。

しかし、アメリカだけでなく、ヨーロッパ諸大国に第一次世界大戦後に問題として捉えられていたのは日本のアジアでの快進撃です。また、第一次世界大戦後に大きな利権の対象になったのは中国であり、そこで大きな進出を見せていたのが日本でした。したがって、アメリカだけでなく、イギリスなどのヨーロッパ諸大国も日本に対する警戒感を強めていたのです。

ヴェルサイユ条約では、日本の占領地や植民地を認めた形になったものの、日本の軍部のアジアへの進出願望は強く感じられました。そのため、各国は日本のそれ以上の拡大は避けたいところだったのです。

ワシントン会議の開催と日本バッシング

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そのために、わずか2年後にはイギリス、アメリカが主導して、世界秩序の安定化を目的としてワシントン会議が開催されることになりました。そこでは、

・中国の門戸開放

・日英同盟に破棄

・日本をターゲットとした海軍などの軍縮

などが話し合われたのです。このワシントン会議以降をワシントン体制といい、それまでのヴェルサイユ体制はわずか2年で終わました。

ヴェルサイユ条約後の日本の動き

日本は第一次世界大戦後には政党政治が確立し、外務大臣になった幣原喜重郎の方針である欧米との強調外交が1920年代には基本路線になりました。1920年代は表面的には平和な時代になったといえます。しかし、実際的には欧米諸国に対して譲歩する幣原協調外交に対する日本軍部の不満は蓄積していました。その頃にも、中国東北部の満州では日本陸軍の関東軍が進出を強めて、中国の軍閥八路軍との小競り合いを繰り返していたのです。

そのため、1929年の世界恐慌後には、日本経済も恐慌に巻き込まれて国民の不満が高まると、軍部の独走が始まり、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦へと戦争の道をたどります。

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