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日本の中国進出に反発した中国国民の「五・四運動」とは?わかりやすく解説

1919年5月に起こった中国の五・四運動を知っている方は少ないでしょう。世界史の教科書には記載があるものの、同年3月に起こった朝鮮半島の三・一運動と区別がつかない方も多いようです。日本が第一次世界大戦で中国の青島のドイツ租借地を攻撃・占領して、中国政府に日本の租借地として認めるよう要求した21カ条の要求などに反発した中国国民の反日運動でした。 この五・四運動について解説します。

五・四運動とはどのような運動だったのか?

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1918年の5月4日に中国の北京でおこなわれた学生を中心とした反日デモは中国全国に広がっていきました。この反日運動を五・四運動と言います。起こった日にちなんで名付けられているのです。この中国で起こった反日運動は、1911年に当時の中国清王朝を倒した辛亥(しんがい)革命以来の大規模デモとなりました。

韓国でも、同年の3月1日に大規模な反日運動が起こり、その運動も大きく拡大して、多くの検挙者や死者が出ています。朝鮮半島の場合は、すでに日本が朝鮮半島を植民地化して統治権を持っていたために、軍隊を出動させて鎮圧しました。死者や多くの検挙者が生まれ、そのため、日本政府は国内で批判され、以後は朝鮮半島の統治方法を変更せざるを得ない事態になったのです。

それに対して、五・四運動の場合は、あくまでも統治をおこなっているのは中国政府でした。しかも、日本から21ヵ条の要求などの難題を押し付けられていたため、積極的に天安門事件のようにデモ隊を鎮圧しなかったため、運動は広がったのです。

この中国で起こった五・四運動の背景や何が起こったのかについて見ていきましょう。

五・四運動までの日本の中国進出に向けた経緯

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日本は1868年に明治維新が起こり、明治新政府が富国強兵を合言葉に、日本の近代化を図り、産業革命も起こって発展を遂げていました。それに対して、中国の清王朝は、アヘン戦争に負けてからも旧守派が力を持ち続け、皇帝と改革派が近代化を図ろうとしても、なかなか近代化は図れていまなかったのです。

そのため、日清戦争では日本に負け、北清事変で北京を外国勢に蹂躙されてしまいます。清王朝が本格的に近代化をしようとしたのは20世紀に入ってからであり、遅すぎました。

日清戦争勝利から日本陸軍の野望は広がった

一方、日本は日清戦争に勝利したことで、世界に対して国としての近代化が認められ、先進国の仲間入りを果たそうとしていました。さらに中国の清王朝から巨額の賠償金をせしめ、その資金で日本の重工業などの鉄鋼産業をはじめ、機械設備面で産業革命による発展も進んでいたのです。そのため、長州藩出身者が中心を占める陸軍では、朝鮮半島のみならず、中国大陸への進出という野望が生まれてきました。

三国干渉による大陸進出の挫折と日露戦争

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しかし、その日本、陸軍の大陸進出に対する野望は三国干渉によって挫折せざるを得ませんでした。そのため、日本国内にはロシア憎しの声が強まり、ロシアとの開戦論が強まります。それによって軍部の大陸進出に世論が同調していたような格好になってしまったのです。

日露戦争勝利後の日本の大陸進出の野望は広がった

日露戦争に勝利した日本は、国内景気が恐慌などで落ち込んでいました。しかし、それにも関わらず、日本陸軍の関東軍を中心として、南満州鉄道を足掛かりに遼東半島から大陸東北部の満州進出に乗り出したのです。その資金は、朝鮮半島を植民地化することで、半島の土地や企業を収奪することで賄おうとしていました。陸軍は満州だけでなく、将来的に大陸中心部までの進出を狙っていたのです。

そのため、植民地化した朝鮮半島では、朝鮮総督府による強引な政策がおこなわれ、朝鮮人民の反発が強くなりました。これは、未だに韓国との関係に影を落としています。

中国の清王朝の崩壊_辛亥革命

同時に中国国内でも清王朝に対する漢民族の反発が強まります。もともと清王朝は大陸の東北部にいた女真族が作った王朝であり、中国本来の漢民族による政権を望む声が強かったのです。孫文などの指導により、1911年についに辛亥革命が起こり、清王朝は崩壊しました。

しかし、清王朝が瓦解した後の中国大陸では、軍閥と言われる地域の政治支配権を持つ軍部を中心とした政治集団がいくつもあったのです。そのため、孫文の革命政権はすぐにその中でも一番勢力の強かった袁世凱(えんせいがい)に実権を奪われてしまいます。それ以降、各地の軍閥のほかにもソ連に影響されて出来た中国共産党が力を持ち、群雄割拠の状況になったのです。中国政府そのものはほとんど力がないのが現実で、各地で主導権争いがおこなわれていました。

そのため、日本の関東軍は比較的容易に満州の多くの地域を勢力圏にすることができたのです。

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