イギリスヨーロッパの歴史

大戦最中自ら陣頭に立った国王「ジョージ6世」をわかりやすく解説

第二次世界大戦中のイギリス。イギリスではドイツ軍による空爆が行われるようになり、国民はどん底に落ち込んでしまいました。 そんな時に自ら陣頭に立ちロンドン市民を勇気づけたのがジョージ6世だったのです。 今回はエリザベス2世のお父さんでもあるジョージ6世について解説していきたいと思います!

内向的であった幼少期

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後に激動の時代の国王となるジョージ6世は1895年にジョージ5世とメアリ妃の次男として生まれました。本名はアルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ。名前の由来は12月14日が女王ヴィクトリアの王配アルバートの命日であったからだといわれています。

イギリス王室の一員として輝かしい人生を送るようになるかと思われたのですが、アルバートはあくまでも次男であり王位継承者として育てられたのは長男であるエドワードであり、アルバートは陰に隠れた存在であったそうです。

さらには言葉を覚えるのが遅く、左利き、X脚でもあったアルバートは父親のジョージ5から食事の際には左手に長い紐を付けられ、左手を使うと父がその紐を引っ張り上げたり、またX脚の矯正用ギブスを脚に付けて矯正するよう指導されるなどかなり過酷なことをやらされていたんだとか。

これは父が同じくX脚で悩んでいた経験によるものだったのですが、この過酷な矯正は別のところで弊害を生むこととなっていくのです。

王室と海軍軍人の一員といて

アルバートは1909年に王立オズボーン海軍兵学校に入学。王室は基本的に軍人教育を受けることがほとんど義務となっていましたが、アルバートも例外にもれずに海軍軍人の一人として訓練を受けていくようになっていき1911年には王立ダートマス海軍大学へと進学しまし、第一次世界大戦中は海軍の士官として従軍。

また、1910年5月6日にエドワード7世が崩御したことによって父であるジョージがジョージ5世として国王に即位。これによってアルバートは兄エドワードに次いで王位継承権2位となりました。

アルバードの結婚

アルバードの最大の問題といわれていたのは過剰なストレスが重度な吃音でした。吃音というのは要するに喋りにくくなる症状のことで激しいストレスやショックをすることで起こる症状として知られていました。皇太子ではないものの、アルバードは王室であるため、徐々にその地位は上がり続けていき、1920年6月4日にはヨーク公爵、インヴァネス伯爵、キラニー男爵に叙せられるようになりました。アルバートは公務の一環として炭鉱、工場、車両基地などの視察を行っていくようになりますが、あくまでもその活躍は視察だけにとどまっており、吃音のおかげで貫禄もあまり出せずにいたアルバードはこれを同時なしなければならないと考えていました。

そんな中、アルバードはついに結婚をする決意を固めるようになります。イギリス王室の慣習ではアルバードのような王室の子息は基本的には外国の王女と結婚するのが常識であったのですが、アルバードは珍しく人には決められずに自分の意思で結婚相手を見つけるいわゆる自由意志で結婚したいと考えていました。

そしてアルバードが結婚したいとした女性がイギリス貴族の娘エリザベス・ボーズ=ライアンだったのです。

しかし、王室となると色々生活に規制がかかってしまうとしてあまり結婚には乗り気ではなく、最初に求婚した時にはあっさり断られてしまい、「何も考えられない、話したくない、何をすべきなのかわからない」とひどく落ち込んでしまいました。これを見かねた母のメアリーは粘り強くエリザベスに求婚していき、ついに1923年にようやく結婚するようになりました。

この結婚に対してイギリス国民は「自由意志による結婚は王室の近代化の現れだ」として激しく歓迎。ウェストミンスター寺院にて結婚式を挙げました。

吃音の克服

アルバートは長年の課題であった吃音症を克服するためにオーストラリア人のライオネル・ローグの治療を受け始めることになります。アルバートとローグは吃音の原因となっていた呼吸法の訓練を開始し。アルバートは長時間根気よく訓練を行うことに。

このような治療が功を奏したのかアルバートはほとんどどもることがなくなり1927年にはオーストラリア連邦議会の開会スピーチをあげることができるようになっており、立派な王族の一員として公務を行えるようになっていたのです。

また、1926年に長女エリザベス(のちのエリザベス2世)、1930年に次女マーガレットが生まれ、夫婦関係はかなり良好だったとされています。

最大の課題であった吃音を克服し王室の一員として立派となったアルバード。王位は弟が継ぎ、自分はその補佐をする役割となるだろうと考えていたと思われたのですが、時代はそれを許さず、そしてアルバードは第二次世界大戦の中で困難な状態となったイギリスを指導しなければならない状態となって行ったのでした。

イギリス国王に

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ジョージ6世の最大の悩みであった吃音を克服することに成功したこの頃、父であるジョージ5世は大戦中の落馬や喫煙による肺機能の悪化もあり体調が徐々に悪化していくように。

公務ができなくなったことを受けてこのころから公務は王太子であるエドワード王太子が代わるようになっていきます。

しかしこのエドワード王太子は女性スキャンダルが絶えることのないプレーボーイで評判はいまいち。しかも王位につくまじかのこの時に離婚歴を持つウォリス・シンプソンと結婚を視野に入れた交際を始めてしまうのです。

イギリスの国教となっているイギリス国教会は元々国王の離婚を許可するために作られたキリスト教の一派だったのですが、国王は離婚歴のある人と結婚することは認めてはいなかったのでした。

さらに、このウォリス・シンプソンはアメリカ人。当時の米英関係は良いものではなく、この交際によってエドワードとジョージ5世との関係は最悪になり、二人の言い争いは絶えなくなったといわれています。

そんな不安要素を残したまま1936年ついにジョージ5世が崩御。エドワード王太子はエドワード8世としてイギリス国王に即位することになります。

こうしてイギリス国王に就任したことによって国王としての自覚を持つかと思われたのですが、エドワード8世のウォリスに対する思いは増すばかり。さらには国王になったことによってとめてくれるストッパーがなくなったエドワード8世は即位式にウォリスを招待したり、王室ヨットでペアルックで旅行に出たりとやりたい放題。

ここまで来ればイギリスの威信に関わる大問題になりかねると判断したイギリスの首相ボールドウィンはエドワード8世に対してに「ここまま関係を継続するのであればイギリス王室にとって重大なことになる」という手紙を送り、実質的にウォリスとイギリス国王のどちらかを選ぶように迫ったのです。普通なら関係を諦めるのが常識ですが、エドワード8世は関係を止めるのであれば国王なんぞやめてやるという意気込みであり、国王になってからわずか1年もたたないうちにラジオにて退位を宣告。ちゃっちゃとイギリスを出国して実質的に国を捨てたのでした。

これにより、国王の座は次男であるアルバートに移ることになり、アルバートはジョージ6世として即位。しかし、吃音症を克服したとはいえ次男であることから国王としての育て方をされておらず、さらに引っ込み思案だったことには変わりなかったのでジョージ6世は母の元に来て泣きじゃくるなどこれからの未来を悲観視していたんだそうです。

治世初期のジョージ6世

こうしてまさしくいきなり国王となってしまったジョージ6世。しかし、この時代イギリスが置かれている状況は厳しいものでした。

まず。この時代になってくるとインドではチャンドラ・ボースやマハトマ・ガンジーといった独立運動家による独立運動が活発化。イギリスからしたらインドはイギリスの富の財源といえる地域であり、インド問題はイギリスから死活問題でした。

さらに海を挟んだドイツではヒトラーの指導のもとでファシスト体制が確立。イギリスはこのヒトラーの対応をどうするか迫られている最中でした。

新しく首相となったチェンバレンはヒトラーに対してできるだけ譲歩する宥和外交を展開。1938年にヒトラーがズデーテン地方を要求するとこれに同意してチェコスロバキアからズデーテン地方を割譲するミュンヘン会談が行われることになります。

ジョージ6世もこの宥和外交には賛成であり、これによってヨーロッパでは平和を勝ち得たと信じていましたが現実は非情でした。

1939年9月にヒトラーはポーランドに侵攻。ポーランドに独立保障をしていたイギリスとフランスはついにドイツに宣戦布告し、いわゆる第二次世界大戦の火蓋が落とされたのです。

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