日本の歴史江戸時代

御三家の筆頭として大きな力を持った「尾張藩」を元予備校講師がわかりやすく解説

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。この三人の出身県といえば、愛知県です。江戸時代、愛知県西部の尾張地方を中心に治めていた藩が尾張藩です。尾張藩は徳川家康の子を藩祖とし、紀伊藩・水戸藩とならぶ御三家として江戸時代に重きをなしました。今回は、尾張藩の特色や代表的な藩主、明治維新後の尾張徳川家について元予備校講師がわかりやすく解説します。

尾張藩の成立と特色

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江戸時代、清洲や名古屋を中心とする尾張国には、尾張藩がありました。尾張藩は徳川家康の九男である徳川義直を藩祖とし、御三家の一つとして高い家格を誇ります。尾張に入った徳川義直はそれまでの中心である清洲城から名古屋城に本拠地を移しました。尾張藩は本拠地の尾張のほかに全国各地に領地を与えられます。特に、信濃木曽郡の檜は藩財政を支える特産物となりました。

尾張藩の成立

織田信長が本拠地とした尾張は東海道の重要な拠点でした。豊臣政権時代は重臣の福島正則清洲城に配置されます。福島正則が配置された目的は家康が関東から京都・大坂に攻め込んでくるのを防ぐことでした。

関ケ原の合戦後、福島正則は広島に加増・転封されます。かわって、関ケ原の戦いで戦法として活躍した徳川家康の四男の松平忠吉が清洲城に入りました。忠吉が若くしてこの世を去ると、尾張は一時、幕府直轄領とされます。

1607年、忠吉の弟で九男の徳川義直が尾張国を与えられました。家康は清洲城とは別に、新しく名古屋城を築城させ、義直の居城とします。これが、尾張藩の始まりですね。とはいっても、藩主になった時はまだ幼かったので、義直が尾張藩主として入国するのは家康死後の1616年になります。

尾張藩の家格・石高など

尾張徳川家は、紀伊徳川家、水戸徳川家とともに御三家とされました。御三家は、将軍家本家の血筋が絶えた時、かわって将軍家を継ぐことができる家柄です。中でも尾張徳川家は紀伊や水戸よりも一段高く扱われ、御三家筆頭として扱われました。

実際、7代将軍徳川家継が幼くして亡くなると、尾張藩主徳川継友や紀伊藩主徳川吉宗は将軍候補とされます。ただ、この時は徳川吉宗が将軍となったため、尾張藩から将軍は出ませんでした。江戸後期にも将軍を出すチャンスがありましたが、結局、尾張藩から将軍が出ることはありません

尾張藩の石高は1619年段階で56万石余。これに、5万石余が加増され、尾張藩の石高は合計61万9500とされました。尾張藩が支配したのは、尾張国のほとんどと、美濃・三河・信濃・近江・摂津などにある飛び地です。価格にふさわしい領地が与えられたといえるでしょう。

尾張藩の経済基盤や特産品の木曽檜

尾張藩の中心である尾張国は、戦国時代から経済の先進地域として知られていました。織田信長の父である織田信秀は、現在の名古屋市の一部にあたる津島や、熱田神宮の周辺を抑えることで商人たちから現金収入を得ます。

また、尾張国は木曽三川が作り出した大きな平野に位置することから、水害が多い半面、農業生産力を増やす余地もありました。江戸時代に入り、治水技術が向上すると積極的に新田開発が図られます。表面的には62万石でしたが、実際は100万石に匹敵する収入があったようですね。

尾張藩を支えるもう一つの柱が飛び地である木曽郡で得られる木曽檜でした。木曽檜は木曽地域やその周辺に分布する天然檜のこと。檜は木目の美しさや木材としての高い適正から高級木材として扱われました。木曽檜の売却益は藩財政の大きな助けになります。

尾張藩の居城、名古屋城

戦国時代、織田信長が誕生した那古野城は、信長が本拠地を清洲城に移したときに廃城とされました。徳川義直を尾張藩主に任じた家康は、かつての那古野城の場所に新たに名古屋城を築城させます。

家康が名古屋築城を決めたのは1610年のこと。このとき、まだ豊臣秀頼は大坂で健在でしたが、家康は最後の諸大名を動員して名古屋城を築城させます(天下普請)。西国の大名たちは石垣の建設を命じられました。特に、築城の名手といわれた加藤清正には天守閣の石垣工事が割り振られます。

名古屋城や城下町の割り振りが完成すると、清洲城下に住んでいた人々は名古屋城に移り住みました。この時、武士だけではなく、町人や寺社・仏閣、清洲城の小天守まで名古屋城に移す大規模なお引越しとなります(清洲越し)。

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