ヒトラーの人生を軽くおさらい
最初はヒトラーの前半生を追ってみてみましょう。彼がどのようにして独裁者になっていったのかを、彼が生まれてから1933年に全権委任法が可決されて独裁に突入するまでの流れと、彼が目指した夢、そしてそれが原因で起こってしまった苦悩とを合わせて見ていきます。
ヒトラーの誕生と少年の頃の挫折
アドルフ・ヒトラーは1889年に税関職員の息子としてオーストリアでうまれました。非常に裕福な家庭にうまれましたが、彼は外国語と数学の成績が極端に悪いことがあり、2年留年したのち退学処分を食らっています。そんな彼が唯一好きでさらに少年時代の夢として志す原動力だったのが絵でした。彼の絵の上手さはまだ現在でも残っている絵を見ればわかりますが、後に独裁者となる男が描いたとは思えない出来の良さでした。
18歳になったヒトラーは一人前の画家になるべく首都ウィーンの美術学校を受験します。しかしからは人物画が苦手だったらしくそれがたたってしまい不合格に。さらに追い打ちをかけるかのように最愛の母が病死。葬式での彼の姿は「わたしの一生で、アドルフ・ヒトラーほど深く悲しみに打ちひしがれた人間を見たことがなかった」といわれるぐらい悲しみに暮れていたといわれています。その後ヒトラーはウイーン周辺で転々としながら、絵葉書を売って何とか生きるホームレス生活を送ることになっていくのでした。
第一次世界大戦と彼の政治家への道
1914年に第一次世界大戦が勃発するとヒトラーはドイツの軍に入隊します。ヒトラーは元々オーストリアの人でしたが、彼はドイツ民族の誇りのために働くことを決心し、ドイツ軍の伝令兵として活躍していくのです。しかし、ヒトラーは毒ガスの攻撃を受け、さらにその毒ガスの治療を受けている間に、ドイツは革命によって敗戦してしまいました。こうしてドイツは敗戦国となってしまいましたが、ヒトラー自身は軍に残って様々な活動を細々としていきます。そんなある日ヒトラーはある党と運命的な出会いをしまいました。そう、それこそがナチス党だったのです。ヒトラーはナチス党に入党し、彼の演説の才能をフル活用して党をどんどん成長させていきます。
1923年にはヒトラーミュンヘン一揆という政府への反乱を起こして牢屋に入れられるのですが、その時自らの考えや目標をまとめた本を出版しました。これのちのドイツの方針となっていく『わが闘争』です。
ナチス党の政権掌握
ミュンヘン一揆を起こして牢屋に入れられたヒトラーでしたが、結局9ヶ月後に出獄することを認められました。そして出獄した直後からナチス党の政権掌握を目指していくことになります。この時のドイツは共産党と中央党という2つの政党が特に議席数を持っていました。しかしナチス党はヒトラーの演説のうまさや魅力的な政策などで国民を魅了してどんどん勢力を拡大していきます。そして1932年の大統領選挙にナチス党は第2党になり、さらに翌年の1933年にはヒトラー内閣が誕生しました。
しかしこの時はまだただの連立内閣でヒトラーが好き勝手できるような状態ではありません。そこでヒトラーはとある手段を使って一気にナチス党の独裁に突き進んでいくことになります。1933年の2月に国会議事堂が炎上するという事件が起きました。ヒトラーはこれを利用してこの炎上事件は共産党の仕業という噂を流し共産党を徹底的に弾圧していきます。
その結果3月の選挙で共産党の議席が大幅に減り、ナチス党は過半数を超え、そして最後のとどめを刺すかのように全ての権利を政府に委ねるという法律である全権委任法が可決されついにヒトラーは独裁者とした君臨しました。
そもそもナチスドイツとは
彼がトップであった『ナチ党』とは『国民社会主義ドイツ労働者党』の略称のことです。
1933年1月に政権を奪取してから、第二次世界大戦で敗北し崩壊する1945年までの間、ドイツを戦争に導き、人種主義によるユダヤ人の迫害を強行しました。
一つ間違えやすいのがナチ党はヒトラーが作った政党ではありません。ナチ党は元々第一次世界大戦においてドイツが敗戦してから約2か月後の1919年1月5日にミュンヘンでドイツ労働者党という名で誕生した小さな政党でした。
そして党が創設されてから7か月後に9月にヒトラーが入党します。彼は本来なら党の活動を監視するだけでしたが、ひょんなことから演説することとなりさらにそれが大好評。それを機に殻が入党して1920年2月には党名を国民社会主義ドイツ労働者党と改称します。
その後ミュンヘン一揆が失敗したことによって一時期解散しかけましたが、1930年9月の総選挙で第2党となり、さらに2年後には与党となって1933年にはヒトラーは首相に就任。ついに全権委任法を成立させ独裁政治が確立。ナチスドイツが誕生したのです。
なんでヒトラーは支持されたのか
ヒトラーが支持された最大の理由は何といっても第一次世界大戦に敗北したドイツを政権についてから5年で復活させたことにあると思います。
まずドイツはどんな状況だったのかを見てみましょう。ドイツは第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約において領土削減、軍備制限、そしてドイツの国家予算の20年にも及ぶ莫大な賠償金が課せられました。その結果ドイツ経済は破綻状態になり、さらにフランスのルール地域というドイツの一大工業地域を分捕られたり、世界恐慌のあおりを受けてドイツはハイパーインフレに突入。国民の生活はボロボロになっていました。
そんな時に首相となったヒトラーは様々な経済政策を行なってドイツの経済を立て直していきます。その中でも特に有名な政策がアウトバーン建設とフォルクスワーゲンの創始でした。アウトバーンというのは日本における高速道路みたいなものだと思ってくれてもいいです。ヒトラーは政権を握ってからドイツ国内に3000キロものアウトバーンを建設を開始して続々と完成していきました。ヒトラーは失業者が多いのであれば政府が仕事を作るというケインズ経済学というのを取り入れてアウトバーンみたいな公共事業を創始し、失業者をどんどん減らしていきました。
さらにヒトラーはフォルクスワーゲンという自動車を創始します。フォルクスワーゲンといったら今でもドイツにおける有名な自動車ブランドですが、このフォルクスワーゲンはなんとナチスドイツが作った国営企業なんですよ。ちょっと意外でしょう?
さらにヒトラーお得意の演説もフル活用し実績と民衆を虜にする技術を持っているヒトラーは、こうしてドイツ国民に受け入れられることになっていったのです。
ヒトラーがユダヤ人を迫害した理由
ヒトラーがやった最大のひどい政策といえばユダヤ人の迫害(ホロコースト)です。ドイツ人が一番優秀という考えのもとでヒトラーの独裁の間に約500万人のユダヤ人が殺されるか、強制収容所に入れられました。しかし、なんでヒトラーはユダヤ人を迫害したのでしょうか?実はそこにはヨーロッパにおけるユダヤ人の立ち位置と、第一次世界大戦が関係してくるのです。次はそんなユダヤ人の立場についてみてみましょう。