- 1. 桶狭間の戦いの概要とその主役たちについて
- 1-1. 今川と織田の勢力争い、そして巻き込まれた松平
- 1-2. 今川義元による松平氏の支配が進む
- 1-3. 当時はまだ若造だった織田信長
- 1-4. 「海道一の弓取り」今川義元
- 1-5. なぜ義元は信長を叩こうとしたのか
- 2. 桶狭間の戦いへ!10倍の兵力を前にした信長に勝算は?
- 2-1. 2万5千 VS 2千5百、勝つのはどっち?
- 2-2. 「今川何するものぞ!」出陣を決めた信長の覚悟
- 2-3. ところで、徳川家康は何をしていたのか?
- 2-4. はっきりとした場所が不明な桶狭間
- 3. 桶狭間に突然の豪雨、そして誰もが予想しなかった今川の大敗
- 3-1. 突然の豪雨が桶狭間を襲う!天は信長に味方した
- 3-2. 迂回した?正面から?奇襲の方法
- 3-3. まさかの事態!義元、討死す
- 3-4. 義元が輿に乗っていた理由
- 3-5. 桶狭間の戦いの後…今川氏の衰退
- 3-6. ついに自立を果たした徳川家康
- 3-7. 信長と家康の同盟、そして信長の勢力拡大
- 信長時代の幕開け
この記事の目次
1. 桶狭間の戦いの概要とその主役たちについて
桶狭間の戦いが起きたのは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)のことでした。場所は尾張(おわり/愛知県西部)の桶狭間。当時新進気鋭の戦国武将・織田信長と、押しも押されぬ超大物・今川義元による戦いで、誰もが予想しえない結末を迎えました。信長が勝ってしまったのです。河越城(かわごえじょう)の戦い・厳島の戦いと並ぶ、日本三大奇襲と呼ばれる戦いでした。
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1-1. 今川と織田の勢力争い、そして巻き込まれた松平
今川氏と織田氏の争いは、桶狭間の戦い以前から生じていました。
両者が争っていたのは、領地の中間にある三河(みかわ/愛知県東部)を巡ってのことです。この地は松平氏が治めていましたが、いかんせん弱小だったため、今川氏にほぼ取りこまれたような状態となっていました。それでも今川と織田は幾度となく小競り合いを起こしており、それが20年ほど前から続いていたのです。このころ争っていたのは、今川義元と織田信秀(おだのぶひで/信長の父)でした。
ちなみに、その小競り合いには、松平竹千代(まつだいらたけちよ)という少年が巻き込まれていました。彼の父・松平広忠(まつだいらひろただ)は、今川義元の強大さの前に、抵抗よりも従うことを選び、義元のもとに自分の息子・竹千代を人質として送ることにしたのです。
1-2. 今川義元による松平氏の支配が進む
後に徳川家康として天下を取ることになるこの少年・竹千代ですが、なんと護送役の裏切りにより、織田方へと連れ去られてしまいます。それでも広忠は義元に従うことを選び、織田方に攻め込まれても今川から援軍を得て、何とか勝利を収めました。ところが、まもなく彼は暗殺しまい、主を失った松平氏は、本拠地・岡崎城さえも今川方の家臣に支配されるようになってしまったのでした。
その後の竹千代はどうなったのかというと、織田・今川との間で起きた安城合戦(あんじょうかっせん)によって信長の異母兄・織田信広(おだのぶひろ)が今川方に捕らえられたことで、人質交換という形でようやく織田から今川へと引き渡されています。
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1-3. 当時はまだ若造だった織田信長
桶狭間の戦いが起きた永禄3(1560)年、信長は27歳でした。まだまだ若造と言ってもいい部類です。
若い頃は、突拍子もない行動をする「うつけ者」として有名だった信長。家臣たちは家の行く末を案じるほどでしたが、父・織田信秀(おだのぶひで)が亡くなり跡を継ぐと、今までの態度を一変させ、うつけ者を封印して武将として開眼していきます。
とはいえ、彼はまだまだ未知数の部分が多い状態でした。しかも織田氏は、信秀の没後、信長と弟・信行(のぶゆき)との間で内紛も起きていました。これによって家中が動揺し、今川方に投降する家臣も続出したのです。信長は尾張一国の統一すら完了しておらず、周りに敵がまだまだ多い状態でした。
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1-4. 「海道一の弓取り」今川義元
一方、今川義元は42歳。かつては僧侶になる道しかなかった三男坊でしたが、兄たちの相次ぐ死により弟と争って勝利し、家督を継いだという修羅場をくぐり抜けてきました。武将としても円熟期を迎えており、今川氏の地盤を盤石なものとして全盛期を築き上げ、「海道一の弓取り(東海道でいちばんの武将という意味)」と呼ばれるようになっていました。駿河(するが/静岡県中部・北東部)と遠江(とおとうみ/静岡県西部)を本拠地とし、武田氏や後北条氏と肩を並べる最強クラスの戦国武将だったのです。
また、強豪の武田氏や後北条氏とは、参謀・太源雪斎(たいげんせっさい)の発案による甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結んだことで背後の憂いが無くなり、その目は西へと向けられたところでした。
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