3-6. ついに自立を果たした徳川家康
さて、今川義元討死の知らせを受けた徳川家康は、大高城を放棄して菩提寺に隠れますが、そこも織田の兵に囲まれてしまいました。家康は絶望し、もはやこれまでと切腹しようとしますが、そこの住職に激励され、なんとか敵兵を退散させます。その時、住職が説いた言葉が「厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)」でした。これは「この時代は誰もが自分の欲のためだけに戦っていて穢れているが、それを嫌って離れ、浄土を求めるならば必ず仏の加護を得られるだろう」という意味で、家康はこれ以降、この言葉を馬印(うまじるし/大将の居場所を示す目印)として用い、自らのシンボルとしたのです。
そして彼は一路、故郷の三河に向かい、今川家臣が放棄したかつての松平氏の本拠地・岡崎城を取り戻し、今川氏から独立を果たしたのでした。
3-7. 信長と家康の同盟、そして信長の勢力拡大
信長と家康はここで同盟を結びます。家康はこれまで従ってきた今川氏に公然と敵対するようになり、これで信長も後顧の憂いを断つことができました。当時、信長は美濃(みの/岐阜県)の斎藤氏と交戦状態に入っており、家康との同盟は彼にとっても非常に有益だったのです。
そして彼は、天下取りという大きな野望を果たすため、さらなる戦いへ身を投じていきます。家康も彼に協力し、織田・徳川連合軍は数々の戦いで勝利を収めていくこととなるのです。
信長時代の幕開け
桶狭間の戦いは、様々な要因が絡み合った上での織田信長の勝利という結果になりました。何かひとつでも違ったことが起きていれば、桶狭間で命を落としたのは信長だったかもしれません。となれば、信長の全盛時代もなく、その家臣となる豊臣秀吉の天下も訪れなかったかもしれませんよね。後に、少ない兵が大軍を打ち破った戦を「○○の桶狭間」と呼ぶことが多くなりますが、それほど、この桶狭間の戦いは戦国時代における大番狂わせだったのです。