なぜ占守島が狙われたのか。その理由とは?
日本本土から遥かに離れ、ほとんど人が住んでいない極寒の島。それが占守島(しむしゅとう)です。なぜこの島で大きな戦闘が起こることになったのか?占守島の地理的要因を探ると共に、日・米・ソの思惑も解説していきましょう。
追い詰められた日本
昭和16年12月に始まった太平洋戦争は、当初こそ日本が優勢のうちに推移したものの、人口や生産力、技術力において圧倒的に有利なアメリカの巻き返しに遭うことになりました。
総力戦体制に移行したアメリカにとって、もはや日本は敵ではなく、日本が保持していたソロモン諸島、マリアナ諸島などの要地を次々に攻略し、もはや戦争の帰結は誰の目にも明らかになりつつあったのです。
南太平洋方面で激戦が繰り広げられている最中、アリューシャン列島や千島列島などの北太平洋海域では、さしたる戦闘もなく、北海道・千島・樺太を管轄する日本陸軍第5方面軍は、保持していた戦力を次々に他の激戦区へ抽出され、その戦力は確実に低下していました。
第5方面軍は、樺太に約2万、占守島や幌筵島(ほろむしろとう)などの島嶼部に2万余りの兵を置いていましたが、北方からアメリカ軍が進攻してくる公算は低いと判断していました。とはいえ、北方地域を戦力の空白地帯にするわけにもいかず、相応の戦力を置くことに留めました。
このまま推移すれば、大きな戦闘に巻き込まれることなく終戦を迎えるはずだったのです。
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ヤルタ会談での密約
昭和20年2月、クリミア半島のヤルタで、第二次世界大戦終戦後の枠組みを取り決める会談が設けられました。参加した首脳はアメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン最高指導者、そしてイギリスのチャーチル首相ら。
そして、この中で密かに議題に上がったのが日本に対する方針でした。もはや日本の敗北は明らかだったものの、日本本土へ進攻したところで激烈な抵抗に遭うのは目に見えていましたし、結果の見えた戦争で、これ以上アメリカ兵士の無駄な犠牲を避けたいルーズベルトの思惑がありました。
そのためソ連が対日宣戦することによって日本へプレッシャーを与え、無条件降伏に追い込むというスタンスで各国が同意したのです。
とはいえソ連も無償で戦争に参加するほどお人好しではありません。当時日本が保持していた満州の権益や、南樺太、千島列島の領有などを条件としました。ルーズベルト、チャーチルもそれを了承し、ソ連の対日参戦が決定したのです。
当時、日本とソ連は互いに戦争を仕掛けないという「日ソ中立条約」を結んでいましたから、これをソ連側が一方的に破棄することが明らかとなったのでした。ところがそこが密約たる所以。その事実を日本は知りません。
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ついにソ連が対日参戦する
昭和20年4月、沖縄にアメリカ軍が上陸し激戦が繰り広げられている最中、ソ連のモロトフ外相は、日本の佐藤大使に対して日ソ中立条約の延長はしないと通告しています。「条約の破棄ではなく、延長しないこと。」これがソ連の巧妙なやり口でした。実際には、条約は昭和21年4月まで効力があると認められていたからです。
それゆえ日本政府は、ソ連による停戦の仲介を期待していました。「このままでは日本の無条件降伏しかなくなる。何としてもそれを避けたい。」しかしその思惑はソ連に見透かされていたと言えるでしょうか。
当時の鈴木首相は、西郷隆盛への江戸城引き渡しの逸話になぞらえて、「スターリン首相の人格は西郷南洲に似たものがあるようだ。」と話していたそうで、ソ連の思惑など全く察知できなかったのでしょう。
かつて首相だった近衛文麿がモスクワに飛び、和平交渉を依頼するといった方策もソ連側に断られて不調に終わり、佐藤大使が正式にソ連の対日参戦の通告を受けたのはなんと8月8日。ソ連軍による満州侵攻の前日のことでした。
満州に配備されていた日本の関東軍は、ソ連軍が戦力を集中しつつあることに感づいていましたが、日本人開拓民たちを避難させることすらせず、何の手も打てないまま時間だけが過ぎていきました。もしこの時、関東軍が速やかに開拓民たちを避難させていれば、民間人の集団自決や、中国残留孤児などの悲劇も起こらなかったはずなのです。
8月9日、長崎に2発目の原爆が落とされたこの日、満州めがけてソ連の大軍が一斉に雪崩れ込んできました。その後の悲劇はご存じの通り、日本軍は蹴散らされ、多くの日本人は殺害され、満州の地は蹂躙されていきました。
そして戦争とは無縁に思えた占守島を含む千島列島にも、ソ連の魔の手が忍び寄ろうとしていたのです。
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