室町時代日本の歴史

【日本最大の兄弟喧嘩】観応の擾乱について解説

室町時代には色々な戦乱があり、室町幕府は安定していた時代の方が短いといっても過言ではないほどかなり混迷としていた幕府でした。 今回はそんな室町幕府の戦乱の中でも特に初期に起こり、かなりややこしい観応の擾乱について解説していこうと思います。

観応の擾乱が起こるまで

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1336年に成立した室町幕府。初代将軍として就任した足利尊氏は武士をまとめて政治を行なっていくのですが、初期の幕府運営は弟であった足利直義との二元政治であったと言われています。

まずはどうして観応の擾乱が起こって行ったのかを見ていきましょう。

尊氏と直義の二元政治

1336年に成立した室町幕府でしたが、初期の幕府運営は武士の関係やまとめ役は尊氏が、訴訟や公権的な支配体制は弟がそれぞれ担当する二元政治が行われていました。

尊氏は直義のことを非常に信頼しており、直義も兄である尊氏のことを非常に尊敬していました。そのためこの二元政治は非常にうまくいったのですが、問題は尊氏の部下にありました。

革新と保守のいざこざ

観応の擾乱が起こった主要因はやはり直義と尊氏の家臣たちの確執にあったとおもいます。

訴訟を主に担当していた直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された公家などの土地の訴訟を扱うことが多い傾向にありました。

そもそも直義や尊氏は鎌倉時代ごろの執権政治を理想としていて御成敗式目を基にした建武式目を制定したりなど従来からの制度・秩序の維持を主な方針としておいていました。

しかし、そのため直義の政治は公家・寺社の既存の権益を保護するどちらかといえば保守的な政治体制となっていきます。

一方で尊氏の家臣たちは高師直などをはじめとしたバサラ大名という人たちが台頭。

これまでの朝廷や天皇などの権威などを否定して自らの能力にて利権を得ていこうという傾向があり、公家や寺社などの領地を得ていき、自らの領地にしてしまうなどかなり革新的な考えを持っていました。

特に尊氏の政所執事であった高師直は「天皇など木彫りの人形で構わぬ」というほどこれまでの権力を否定しており、師直はこのような武士団を統率して当時幕府に反抗していた南朝側の武士と戦いに明け暮れる日々を送っていました。

今も昔も異なる考え方で政治がまとまるはずもなく、徐々に直義と師直の関係は悪化。

この政治体制の違いから観応の擾乱の火種へと変わっていくのです。

対立から対決へ

こうして不穏な情勢になってきた幕府ですが、そんな中でバサラ大名の1人として知られており、美濃国の守護を務めていた土岐頼遠が鍛錬の帰りに光厳上皇が乗っている牛車に対して酒に酔った勢いで「院と言うか。犬というか。犬ならば射ておけ」と罵って牛車を蹴倒すという事件が発生します。

上皇が乗っている牛車に対して狼藉行為を行うことなど前代未聞。まさしく権威を否定したバサラ大名だからこそできる行為なんですが、このことを聞いた直義はブチ切れてしまい頼遠を逮捕して六条河原で斬首してしまいます。

元々頼遠は幕府内の有力守護として知られており、このことがきっかけで今まででも関係が悪かった直義と師直の関係がさらに悪化。

また、楠木正成の息子である楠木正行が京都奪還を目指して軍を起こすと、師直は1348年に河内国の四條畷で正行軍を撃破。

さらにその勢いに乗じて南朝側の本拠地である吉野まで陥落させました。

この結果、師直の幕府内の地位は急上昇。それに対して直義の権威は揺るぎ始める結果となってしまったのです。

直義の排除

四條畷の戦いで南朝の勢力を撃破した高師直の権力は確固たるものとなりましたが、これは直義派の武士たちからすれば面白くない。

直義は側近である上杉重能などとともに当時政務をほとんど放棄した状態であった尊氏に対して師直のこれまでの悪行を伝え、さらには師直を執事の座から降ろすように迫り、これを成し遂げます。

また、直義は師直を徹底的に排除するために光厳上皇に院宣を出してもらうように懇願。

これを受けて我慢の限界に達した師直は河内国から京都へと急行して8月12日師直は尊氏に迫り直義を逆に排除する逆クーデターを成功させました。

予想だにもしなかった逆クーデターに慌てた直義はすぐさま尊氏の屋敷に逃げ込みなんとかことを丸く収めようとするのですが、師直は権力など関係ないバサラ大名。師直の軍勢は主君の御所であろうと関係なく包囲し、直義の側近である上杉重能と畠山直宗の身柄引き渡しを要求しました。

この足利将軍家の騒動は当時尊氏の師匠であった夢窓疎石という僧侶が仲介役として買って出て、直義は出家して幕政からは退くことと、上杉重能は越前国に追放するという条件で包囲を解くことに同意。

こうして直義と師直の幕府を巻き込んだ争いは一応の収束へと向かっていくことになるのですが、日本史ではこの事件でしか見ることがない『擾乱』はまだ終わることはなく、ここからさらにヒートアップすることになるのでした。

南朝とタッグを組む直義

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直義は幕政から身を退き、出家することになりましたが、直義の養子である足利直冬は養父が政変によって失脚したと知ると直ちに赴任先の中国地方の武士をかき集めて上洛を起こそうとするのですが、師直は直ちに討伐令を出して九州へと転身。太宰府周辺を統治していた少弐家とタッグを組んで九州地方の地盤を固めていきます。しかも九州地方は10年間以上南朝側の武士によって統治されていたまさしく南朝のホームといってもいいような地域であり、ここから直義派の武士たちは南朝側の武士たちと急接近。四條畷の戦いで楠木正行を亡くして以降停滞状態であった南朝側はこれをチャンスと捉えて直義側とタッグを組むことに成功。

また関東では上杉家の争いによって師直派が排除されれ結果となってしまい、師直の権力に暗雲が立ち込めるようになっていきます。

直義の挙兵と師直一家の滅亡

こうした動きを受けて師直は光厳上皇を担ぎ上げて直義側の勢力と南朝をまとめて潰す計画を立てていくようになりましたが、直義はこの計画が実行に移される前に京都に向かって進軍。

南朝側の軍勢を連れて行ったその勢力は師直だけではもうしようもなく、備後国に出陣していた尊氏は打出浜の戦いで敗北。

尊氏は師直の出家を条件に和議を取り付けると師直はこの条件を果たすべく摂津国に出頭。その護送中に上杉重能の養子であった上杉能憲によって武庫川のほとりで一族ともに暗殺。

高師直の一族は滅亡することになったのでした。

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