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ヨーロッパ連合軍はなぜ敗れた?恐怖のモンゴル軍との戦い「ワールシュタットの戦い」を解説

世界の歴史の中で、最も大きな版図を築いた国はどこだかわかりますか?中国?ロシア?いえいえ実は13世紀に世界を席巻したモンゴル帝国なのです。その最盛期には、東は朝鮮半島、そして西ははるかヨーロッパまでその勢力は及びました。元寇と呼ばれる二度の襲来によって日本も危機に立たされたのも周知の事実ですよね。そこでヨーロッパ連合軍がモンゴル軍によって壊滅的な打撃を受け、ヨーロッパを恐怖のどん底に叩き込んだ「ワールシュタットの戦い」について解説していきたいと思います。

進軍した各地で残虐行為を繰り返すモンゴル軍

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モンゴル高原の一角にチンギス・ハンが建国したモンゴル帝国は、同じモンゴル系部族を次々と征服して瞬く間に領土を拡大していきました。その死後も帝国は拡大を続けて遠くヨーロッパへ到達していくのです。しかしモンゴル軍は非常に荒っぽく残虐非道だという噂は、進軍する先々で人々を恐怖に陥れたといいます。ヨーロッパでの戦いへ至るまでを見ていきましょう。

中国遠征に乗り出したモンゴル帝国軍

モンゴル東部に起こったチンギス・ハンの国は、1204年に同じく高原の西部を支配していたナイマン王国を討ってモンゴルを統一しました。やがて部族の指導者を集めたクリルタイ(モンゴルの最高意志決定機関)で、モンゴルの統治者大ハーンとして君臨しモンゴル帝国が建国されたのです。

次にチンギス・ハンが狙いを定めたのは現在の中国でした。当時は統一王朝がなく、北部には女真族が建国した【金】、そして南部には【南宋】が存在していました。

1208年、征討の軍を興したチンギス・ハンは北京の北東において、たった数時間で7万の兵力を誇る金軍を殲滅し、我が物顔で金の領土内を席巻しました。1214年の遠征ではついに金は北京を捨てて南部へ逃れ、わずかな領土を残すだけの小国に転落してしまいました。この時に金の官僚だった耶律楚材(やりつそざい)が臣下に加わり、モンゴル帝国の国家体制を整え支えたといいます。

何とか命脈を保っていた金も1234年、モンゴルと南宋に挟み撃ちにされ滅亡。皇帝も自殺してしまいました。さらに後年になりますが、南宋もまたモンゴルによって滅ぼされています。

ホラズム王国を滅ぼし、カスピ海へ到達する

中国への遠征を一段落終えたチンギス・ハンは、今度はその目を西へ向けることになりました。以前滅ぼしたナイマン王国のグチュルクが、トルキスタンへ逃れて西遼の王位を奪っており、それを見過ごすことができなかったからです。

チンギス・ハンが派遣した遠征軍はあっという間に西遼の軍隊を打ち破り、グチュルクもまた殺されました。西遼に服属していた西ウイグル王国もまたモンゴルの支配下に入り、ウイグル人たちは帝国を支える官僚層となったのです。

やがて中央アジアにまで達したモンゴル軍は、ここで大きな抵抗勢力とぶつかることになりました。現在のパキスタン、イラン、アフガニスタンにまたがる広い領域を支配していたホラズム帝国が目の前に立ちふさがったのです。しかしホラズム王国のスルタン(君主)アラーウッディーン・ムハンマドは致命的な戦術ミスを犯します。野戦を嫌がって城塞都市に戦力を分散させてしまい、かえってモンゴル軍によって各個撃破されてしまったからです。

首都として栄えたサマルカンドは徹底的に破壊されて人口の3/4を失い、ブハラも同じく廃墟と化し、ヘラートに至っては二度までも侵攻に遭い、住民はほぼ皆殺しにされました。

モンゴル軍の侵攻スピードの速さと、徹底した残虐ぶりに恐れをなしたアラーウッディーン・ムハンマドは慌てて逃走を図ります。モンゴル軍も追跡の軍を発し、最後は追い詰められカスピ海に浮かぶ小島でアラーウッディーンは自殺してしまいました。

その後も、ホラズム王国の王子率いるホラズム軍に苦戦するも所期の目的は達し、さらにモンゴル軍の一部は遥かコーカサス平原にまで到達してロシア諸侯の連合軍を打ち破っています。

モンゴル軍によるロシア侵攻

1225年、多くの戦利品と奴隷を連れて凱旋したチンギス・ハンでしたが、翌年に落馬による負傷が元でこの世を去ります。偉大な創業者の跡を引き継いだのが3男のオゴタイ(オゴデイ)でした。

1232年に金を滅ぼすと、首都を正式にカラコルムに定めます。これ以降は大ハーンが直接軍を率いることはなくなり、大ハーンの血縁者の軍が各方面へ遠征を行うようになりました。

1236年、オゴタイは帝国のさらなる拡大を図って甥のバトゥにロシア・東ヨーロッパの征服を指示します。この遠征軍は王族たちの長子クラスで編成され、領土を持たない者もいました。

モンゴル軍はまずヴォルガ河畔にある都市ブルガールの攻略に取り掛かりました。抵抗を試みたブルガールは徹底的に破壊され、二度と街が再建されることはありませんでした。ちなみにブルガール人の多くはイスラム教へ改宗していますが、改宗を良しとしなかった一部の人々は、ヨーロッパへ移住し、のちにブルガリアを建国しています。

1237年、凍り付いたヴォルガ川を渡河したモンゴル軍はロシアへ侵入。真っ先にリャザン公国を滅ぼして、見せしめのように君主はじめ一族を皆殺しにします。さらにウラジミール大公国、スーズダリ大公国はじめ抵抗するルーシ諸国を次々に攻略し、広いロシア平原を縦横に駆け回りました。

1240年にはルーシ南部の大都市キエフも包囲され、キエフ大公国が滅亡。おびただしい避難民がが西のポーランドやハンガリーへと逃げ込むことになりました。

こうしてロシアを席巻したモンゴルの大軍団が、ヨーロッパへと雪崩れ込むのは時間の問題となったのです。

モンゴル軍はなぜ無敵だったのか?その真相に迫る

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unknown / (of the reproduction) Staatsbibliothek Berlin/Schacht – Dschingis Khan und seine Erben (exhibition catalogue), München 2005, p. 255, パブリック・ドメイン, リンクによる

瞬く間にユーラシア大陸の大部分を席巻し無敵を誇ったモンゴル軍。行く先々でどんな大軍が相手でも圧倒的な勝利を収めています。なぜ彼らはそんなに強かったのでしょうか。そこには遊牧民ならではの戦い方の特徴が表れているのです。

モンゴル軍兵士の驚異的な忍耐力と連帯力

モンゴル民族はよく知られている通り遊牧の民だといわれています。しかし遊牧のみでは大きな利益を生み出せないと考えたチンギス・ハンは、東西交易から得られる税収によって豊かな国づくりができると考えたのかも知れません。

しかし西へ向かえば向かうほど強国ばかり。勢力を拡大するためには精強無比な兵力が必要です。その点、モンゴル兵は他国兵とは違って恐るべき戦闘力だけでなく、忍耐力や連帯力を兼ね備えていました。

どんな気候にも耐え、どんな粗食でも口にできる能力に外国人は驚嘆したといいます。かのマルコ・ポーロ「彼らは、必要なら火を通さない肉だけ食べて10日間も行軍することができる。酒も水もなくても、馬の血だけでしのぐこともしばしばだった。」と書き記していますし、イタリアのフランチェスコ会修道士カルピニ「口に入るものなら、何でも彼らの食料になる。」と記しています。

またモンゴル独自の携帯食料は、羊まるまる一頭分を干し肉にし、叩き続けて軽量化させ、最後は袋に入るサイズにまで圧縮できました。いわゆる普段から粗食に慣れていたということが言えますね。

また彼らの連帯感も一枚岩のようだったといいます。最高責任者を1人決めた上で、1千人の兵士を戦闘集団としてまとめ寝食を共にさせました。さらに100人隊10人隊と組織を細分化させたうえで、上司には絶対服従という倫理を課しました。そうすることで強固な組織作りを図っていたのですね。

ちなみにモンゴル軍は数において絶えず劣勢でした。そのため占領国の男子10人のうち3人を徴兵しており、その戦力として駆使していました。しかし本来なら敵愾心を持ち、離反や反乱の恐れのある彼ら徴集兵たちの多くは極めて忠実だったといいます。なぜなら部隊全員に連帯責任を持たせ、1人が失敗を犯せば全員が罰せられるという倫理観の中では、そこにモンゴル人も外国人も垣根はなかったからです。

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明石則実