- 1.進軍した各地で残虐行為を繰り返すモンゴル軍
- 1-1.モンゴル民族を統一したチンギス・ハン
- 1-2.中国大陸を征服したモンゴル帝国
- 1-3.西へ覇権を広げる
- 1-4.ホラズム帝国を滅ぼす
- 1-5.チンギスの死と、オゴタイの野望
- 1-6.ロシアを地に染めるモンゴル軍
- 2.モンゴル軍はなぜ無敵だったのか?その真相に迫る
- 2-1.モンゴル軍兵士の驚異的な忍耐力
- 2-2.強固な結束力と連帯感
- 2-3.強さの決め手はスピード
- 2-4.周到な準備と負けない戦術
- 2-5.効果てきめんだった「見せしめ」
- 2-6.モンゴル軍が残虐だったのはウソ?ホント?
- 3.モンゴル軍、いよいよヨーロッパへ侵攻
- 3-1.二手に分かれて進軍するモンゴル軍
- 3-2.ほぼ壊滅したヨーロッパ連合軍
- 4.「ワールシュタットの戦い」と「モヒ」の戦い
- 4-1.戦いの口火がきられる
- 4-2.思わぬ伏兵を受ける
- 4-3.一方的な殺戮戦となる
- 4-4.モンゴル軍の圧勝に終わった「モヒの戦い」
- 4-5.大ハーンオゴタイが亡くなる
- モンゴルが去った後も恐怖を忘れなかったヨーロッパ
この記事の目次
1.進軍した各地で残虐行為を繰り返すモンゴル軍
モンゴル高原の一角にチンギス・ハンが建国したモンゴル帝国は、同じモンゴル系部族を次々と征服して瞬く間に領土を拡大していきました。その死後も帝国は拡大を続けて遠くヨーロッパへ到達していくのです。しかしモンゴル軍は非常に荒っぽく残虐非道だという噂は、進軍する先々で人々を恐怖に陥れたといいます。ヨーロッパでの戦いへ至るまでを見ていきましょう。
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1-1.モンゴル民族を統一したチンギス・ハン
モンゴル東部に起こったチンギス・ハンの国は、1204年に同じく高原の西部を支配していたナイマン王国を討ってモンゴルを統一しました。
やがてモンゴル各部族の指導者を集めたクリルタイ(モンゴルの最高意志決定機関)において、チンギス・ハンはモンゴルの統治者大ハーンとして君臨し、モンゴル帝国が建国されたのです。
まずチンギス・ハンが狙いを定めたのは現在の中国でした。当時は統一王朝がなく、北部には女真族が建国した「金」、そして南部には「南宋」が存在していました。
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1-2.中国大陸を征服したモンゴル帝国
1208年、征討の軍を興したチンギス・ハンは北京の北東において、たった数時間で7万の兵力を誇る金軍を殲滅し、我が物顔で金の領土内を席巻しました。
続く1214年の遠征では、ついに金は北京を捨てて南部へ逃れ、わずかな領土を残すだけの小国に転落してしまいました。この時に、金の官僚だった耶律楚材(やりつそざい)が臣下に加わり、モンゴル帝国の国家体制を整えたといいます。
何とか命脈を保っていた金も1234年、モンゴルと南宋に挟み撃ちにされて滅亡。皇帝も自殺してしまいました。さらに後年のこととなりますが、残った南宋もまたモンゴルによって滅ぼされています。
1-3.西へ覇権を広げる
中国への遠征を一段落終えたチンギス・ハンは、今度はその目を西へ向けることになりました。以前滅ぼしたナイマン王国のグチュルクが、西へ逃れて西遼という国の王位を奪っており、それを見過ごすことができなかったからです。
チンギス・ハンが派遣した遠征軍はあっという間に西遼の軍隊を打ち破り、グチュルクもまた殺されました。西遼に服属していた西ウイグル王国もまたモンゴルの支配下に入り、ウイグル人たちは帝国を支える官僚層となったのです。
やがてモンゴル軍は中央アジアにまで達しますが、ここで大きな抵抗勢力とぶつかることになりました。現在のパキスタン、イラン、アフガニスタンにまたがる広い領域を支配していたホラズム帝国が目の前に立ちふさがったのです。
1-4.ホラズム帝国を滅ぼす
モンゴル帝国との戦いが不可避となった時、ホラズム王国のスルタン(君主)アラーウッディーン・ムハンマドは致命的な戦術ミスを犯してしまいます。野戦を嫌がって城塞都市に戦力を分散させてしまい、かえってモンゴル軍によって各個撃破されてしまったからです。
首都として栄えたサマルカンドは徹底的に破壊されて人口の3/4を失い、ブハラも同じく廃墟と化し、ヘラートに至っては二度までも侵攻に遭い、住民はほぼ皆殺しにされました。
モンゴル軍の侵攻スピードの速さと、徹底した残虐ぶりに恐れをなしたアラーウッディーン・ムハンマドは慌てて逃走を図ります。モンゴル軍も追跡の軍を発し、最後は追い詰められカスピ海に浮かぶ小島で彼は自殺してしまいました。
その後も、ホラズム王国の王子率いるホラズム軍に苦戦するも所期の目的は達し、さらにモンゴル軍の一部は遥かコーカサス平原にまで到達してロシア諸侯の連合軍を打ち破っていますね。
1-5.チンギスの死と、オゴタイの野望
1225年、多くの戦利品と奴隷を連れて凱旋したチンギス・ハンでしたが、翌年に落馬による負傷が元でこの世を去ります。偉大な創業者の跡を引き継いだのが3男のオゴタイ(オゴデイ)でした。
1232年に金を滅ぼすと、首都を正式にカラコルムに定めます。これ以降は大ハーンが直接軍を率いることはなくなり、大ハーンの血縁者たちが各方面へ遠征を行うようになりました。
1236年、オゴタイは帝国のさらなる拡大を図って甥のバトゥにロシア・東ヨーロッパの征服を指示します。この遠征軍は王族たちの長子クラスで編成され、領土を持たない者も多くいました。土地と人民を得ること。それが彼らの狙いだったのです。