日本の歴史飛鳥時代

天皇中心の国造りの出発点「大化の改新」をわかりやすく解説

小学生のころから歴史の教科書に載っている大化の改新。古代日本史の重要イベントです。天皇をないがしろにした蘇我氏を中大兄皇子と中臣鎌足がやっつけた、といった印象が強い事件かもしれません。大化の改新は蘇我氏を排除しただけではなく、天皇中心の国造りの出発点となった政治改革でもありました。今回は、大化の改新についてわかりやすく解説します。

大化の改新の背景

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大化の改新の背景となったのは蘇我氏の力が強大化したからです。ですが、どうして蘇我氏は天皇家をもしのぐ力を手にすることができたのでしょう。そこには、大和政権の構造的な問題がありました。大和政権の仕組みと大化の改新直前の状況についてまとめます。

氏姓制度と有力豪族

大和政権が存在していた時代のことを古墳時代といいます。その名の通り、全国各地に古墳が作られた時代でした。奈良盆地のある大和地方の豪族たちや地方の有力豪族がそれぞれ、地域の支配権を持っています。豪族たちは所有する土地で人々を働かせていました。

古墳時代の中頃の5世紀~6世紀。大王を中心とする大和政権が成立します。大和政権では豪族たちが血縁を中心にまとまっていました。これを氏族といいます。朝廷の役職を姓(かばね)といいますが、姓は氏族ごとに与えられました。この仕組みを氏姓制度といいます。

大王家と並ぶほどの力を持つ有力豪族には大臣(おおおみ)の姓が、特定の分野で朝廷に仕えていた有力豪族には大連(おおむらじ)の姓がそれぞれ与えられました。大王は絶対的な存在ではなく、大臣や大連になるような有力豪族に支えられた存在です。大和政権は大王と有力豪族の連合政権だったといえるでしょう。

蘇我氏の台頭

6世紀に入ると豪族たちの力のバランスが変化します。それまで、朝鮮問題などの外交を取り仕切ってきた大伴氏が領土問題の対応のまずさから大連を辞任。かわって大連となったのが軍事面を司る物部氏でした。

そのころの大臣は蘇我氏です。物部氏と蘇我氏はある問題について対立関係にありました。それが、仏教を受け入れるかどうかという問題です。仏教反対派の物部氏と仏教賛成派の蘇我氏はたびたび衝突。ついには大王家も巻き込んだ武力衝突に発展しました。のちに聖徳太子とよばれる厩戸王は仏教受け入れ派として蘇我氏とともに戦います。

戦いは蘇我氏の勝利。物部氏は滅亡し蘇我氏の権力は一気に強まりました。蘇我氏は新しい大王として崇峻天皇をたてますが、崇峻天皇は蘇我氏の勢力に反発。蘇我馬子は言うことを聞かない崇峻天皇を暗殺してしまいました。

推古天皇時代の政治

崇峻天皇の跡を継いだのが推古天皇です。敏達天皇の皇后で日本史上初めての女帝でした。彼女は蘇我馬子の強大な力を抑えたいと考えていました。そこで、甥にあたる聖徳太子を摂政に任命して補佐させることにします。

聖徳太子は蘇我馬子と協調しつつ政治を行いました。冠位十二階では役職を与える基準を氏族ではなく個人に変更。のちの位階制の元となったと考えられます。また、十七条の憲法では役人が守るべき心得を制定。外交面では隋に小野妹子を派遣するなど数々の政治をおこないました。

しかし、蘇我馬子や入鹿の冠位は伝わっていません。どうやら、聖徳太子の改革で蘇我氏は例外的な立場を認められたようです。これまでの経緯を考えると、蘇我氏が特権を持っていたとしても何の不思議もありません。この扱いがのちに、蘇我氏が強大化しすぎる要因の一つとなるのです。

大化の改新の経緯

推古天皇や聖徳太子は蘇我氏を排除するのではなく取り込む形で政治を行いました。622年に聖徳太子が亡くなると蘇我氏をコントロールできる人物がいなくなります。強くなりすぎた蘇我氏を倒すため、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)は策を練り、蘇我氏を倒しました。蘇我氏打倒後は天皇中心の国づくりが始まります。

山背大兄王の変~強大化しすぎた蘇我氏~

山背大兄王は聖徳太子の子です。推古天皇が病死した時、馬子の子である蘇我蝦夷がたてた田村皇子と皇位を争って敗れた人物。蘇我氏からすると、反対派に担がれやすい人物と言えます。

蘇我馬子の孫で蝦夷の子である蘇我入鹿は643年、斑鳩宮にいた山背大兄王を襲撃。山背大兄王はいったんは難を逃れますが、父である聖徳太子が建てた法隆寺で自殺してしまいました。

この事件後、蘇我入鹿の力はますます強大化。蘇我氏は甘樫丘の屋敷を宮門(みかど)、墓を陵(みささぎ)と呼ばせるなど「調子に乗っている」といわれても仕方がないような行為をしたと記録されています。蘇我入鹿の権力は並ぶものがないものになりましたが、彼に対するひそかな反発も広がりつつありました。

乙巳の変~蘇我氏の排除~

蘇我入鹿の力は天皇をもしのごうとしていました。朝廷で入鹿に逆らえるものは誰一人いません。危機感を持ったのは皇族の中大兄皇子でした。同じように蘇我氏の強大化を憂える人物がいました。中臣鎌足です。

彼ら二人が出会ったのは飛鳥寺での蹴鞠の会でした。皇子が蹴鞠に夢中になり、思わず靴を飛ばします。その靴を拾ったのが中臣鎌足でした。鎌足は蹴鞠の時の立ち居振る舞いや、目下のものに丁寧にお礼をする姿を見て、人の上に立つ人物だと直感したといいます。鎌足は中大兄皇子に蘇我氏打倒の計画を持ちかけました。

準備を整えた鎌足は計画を実行。外国の使者が来たとの知らせを伝え、入鹿を宮殿におびき出します。宮殿の中では武器を外し、護衛を遠ざけなければいけません。中大兄皇子と中臣鎌足はその瞬間を待っていました。

645年6月12日、宮殿におびき寄せられた入鹿は殺害されてしまいます。知らせを聞いた父の蝦夷は邸宅に火をかけました。こうして、強大だった蘇我氏の本家は滅亡したのです。

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