室町時代戦国時代日本の歴史

戦国最強の軍師・「黒衣の宰相」太源雪斎なしに今川氏は成り立たなかった

戦国時代の名軍師は?と問われたら、まず名前を挙げるべきはこの人・太源雪斎(たいげんせっさい)です。彼の運命がただの僧侶から一変したのは、当時同じく僧侶になるはずだった少年・今川義元(いまがわよしもと)と出会ったことがきっかけでした。雪斎はなぜ、一介の僧侶から戦国最強軍師と称されるまでに至ったのでしょうか。今川全盛時代を支えた彼の生涯をご紹介しましょう。

武士から僧侶の道へ進み、今川義元と出会う

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太原雪斎は今川氏に仕えた重臣の家に生まれ、元々はれっきとした武家の出でした。しかし、早くに出家し、仏門に入ります。ただ、生来聡明だった彼の名声は、かつての主家・今川氏にも届いていたのです。そして彼のところに、当主の息子を養育してくれないかという依頼が入ったのでした。若き青年僧侶・雪斎と、少年今川義元との出会いまでを解説します。

今川重臣の家に生まれた雪斎

雪斎が生まれたのは明応5(1496)年のこと。京都のみならず、日本全体を疲弊させた応仁の乱の終結から20年ほど後の時期になります。

彼の父は庵原政盛(いはらまさもり)と言い、今川氏の重臣として仕えていました。母も同じく今川重臣の娘です。

となれば、雪斎も将来的には今川氏の重臣となる…と思いますよね。しかし、理由は不明ですが、雪斎は少年時代に早々に出家し、僧侶の道を選びました。ただ結局、将来的には今川氏の軍師となりますので、どちらの道を選んでも行き着く先は同じだったのかもしれませんね。

優秀さがかつての主家にまで届く

出家当初、雪斎は九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗っていたそうです。そして、駿河(するが/静岡県東部)の善得寺(ぜんとくじ)で修行したと言われています。それから京都の建仁寺(けんにんじ)に入り、修行を続けました。ここは臨済宗の開祖・栄西(えいさい)が開いた名門の寺で、この頃から雪斎の聡明ぶりは有名になっていったそうです。将来は位の高い僧になると期待されていました。

これを聞き及んだのが、かつての主家・今川氏の当主である今川氏親(いまがわうじちか)だったのです。

幼い義元の教育係を依頼される

ちょうどこの頃、氏親には男の子が誕生していました。幼名を芳菊丸(ほうぎくまる)というこの子こそ、後の今川義元です。

ただ、義元は氏親の五男であり、同じ母から生まれた兄たちがいました。ということは、家督を継ぐということはまずありえません。戦国武将の家に生まれ、後継者でない男子は、幼い時に出家することがほぼ既定路線でした。とはいえ、氏親は、教育は立派なものを受けさせたいと考えていたようです。

そこで氏親はすぐさま建仁寺に使いを送り、雪斎を息子の教育係に迎えたいと伝えました。

 

義元と共に京都へ、僧侶として育てるはずだったが…

雪斎は当初、2度もその依頼を断ったとも言われています。五男とはいえ主家の大事な子供をあずかるのは、荷が重すぎると考えていたのでしょうか。

しかし、氏親も再三にわたって雪斎に頼み続け、ついに雪斎は根負けし、義元の教育係を受けることにしたのでした。

幼い義元にとっては、雪斎は師であると同時に、父親のような存在だったことでしょう。2人は常に一緒に行動し、雪斎のかつての修行場所である建仁寺も訪れ、修行の日々を送りました。義元はここで得度を受け、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗ることになったのです。この時、九英承菊と名乗っていた雪斎も、正式に名を太原崇孚(たいげんすうふ)としました。「雪斎」というのは彼の号となります。

雪斎は教育の中に兵法も取り入れていたそうです。本来なら必要のないものだったのかもしれませんが、これが後に大きな意味を成すことになりました。

 

やがて、今川家には波乱がやって来ることとなります。

主を当主にするため、雪斎は戦いに身を投じる

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雪斎と少年時代の今川義元は、家督を継ぐことなど想像もせず、日々の生活を送っていました。しかし、兄たちの相次ぐ死により、今川氏に家督相続争いが生じてしまったのです。出家していた義元は還俗し、雪斎は彼のそばで参謀となりました。軍師・太源雪斎の誕生となったのです。

跡継ぎの相次ぐ死により、今川氏に家督争いの火種が生ずる

氏親はすでに亡くなり、跡を継いでいたのは氏親の長男で義元の長兄である氏輝(うじてる)でした。しかし、この氏輝が天文5(1536)年に24歳で急死してしまったのです。しかも、その跡を継ぐはずだった次兄の彦五郎(ひこごろう)までもが、なんと同じ日に亡くなってしまいました

こうなると、残った男子のうち誰が家督を継ぐのか?という問題になってきますよね。

実は、氏輝・彦五郎に続く義元の2人の兄たちもまた、出家し仏門に入っていたのです。となれば、全員が横並びの状態になってしまうわけで、それはすぐに家督争いという様相を呈してくることになってしまいました。

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