日本の歴史飛鳥時代

日本最古の仏教寺院「飛鳥寺」1400年の歴史と見どころを解説

日本で最も古い大仏さまがある場所をご存じでしょうか?おそらく「奈良の大仏さま!」と答える方が大半だと思います。しかし意外と知られていませんが、奈良県明日香村にある飛鳥大仏こそが最も古いものだとされているのです。また飛鳥大仏が安置されている飛鳥寺は、日本最古の仏教寺院としても有名で、伽藍こそ江戸時代に再建されたものですが、そこかしこに1400年の歴史の息吹を感じることができるでしょう。そこで飛鳥寺の歴史や文化財を解説つつ、見どころなどもご紹介できればと思います。

飛鳥寺の伝統ある歴史

image by PIXTA / 59963677

日本最古の仏教寺院である飛鳥寺は推古朝の飛鳥文化を彩り、日本初の仏教文化を花開かせた存在でした。その後の変遷を絡めながら解説していきたいと思います。

飛鳥寺が建立される

日本へ仏教が伝来したのは538年(または552年とも)とされていますが、当初から諸手を挙げて歓迎されたわけでもないようです。せっかく朝鮮半島の百済から釈迦如来像や仏具・経論が贈られたものの、反対勢力が多かったために破却されたといいます。

やがて仏教受け入れ賛成派の蘇我氏と、受け入れ反対派の物部氏との間で抗争となり、武力衝突のうえ蘇我氏が勝利しました。その時の蘇我氏の当主、蘇我馬子は崇峻天皇を擁立し、ようやくのことで日本初の仏教寺院を建立するに至ったのです。

百済からの渡来人、飛鳥衣縫樹葉から宅地の提供を受け、そこに20年をかけて完成したといいます。しかし寺院という箱を作ったとしても、肝心の中身になる僧がいなければ意味がありません。そこで百済から何人もの僧侶や寺工、露盤博士、瓦博士、画工などの専門技術者が派遣されてきました。

588年に造営を開始し、606年に金堂に大仏が安置され完成を迎えました。

飛鳥文化を彩った飛鳥寺の存在

一般的に飛鳥時代とは、飛鳥寺の造営が始まった588年から平城京に遷都される710年までの約120年間とされています。 この時代は、中国大陸の隋や唐の成立による東アジア国際社会の変化に対応するために、大陸の優れた制度や技術、文化を積極的に導入していた時期にあたるのです。そして古墳時代から培ってきた伝統的なものと融合させながら質的転換を図り、文明化を推し進めていったといえるでしょう。

平野の広がる飛鳥の地には、宮殿や寺院、人工池などが造られ、その景観と相まって古墳時代とは違った飛鳥文化が誕生していたのです。

飛鳥寺建立以降には、豪族や氏族たちが先を争うように仏教寺院を建立していったといいますから、飛鳥京は仏教都市としての側面も持っていたということでしょう。

また、飛鳥寺は蘇我氏の氏寺として繁栄していましたが、645年の大化の改新で蘇我氏が滅亡して後も朝廷の保護を受け尊崇されていたといわれています。

平城京への遷都と共に移転

約100年もの間繁栄してきた飛鳥寺ですが、奈良時代の始まりとともにターニングポイントを迎えます。実は都が平城京に定められた時、飛鳥寺に代わるほどの存在はありませんでした。国家鎮護の格式を持つ寺であり、まさに仏教伝来以来の教えのメッカとして尊崇されてきたためです。

それほど存在感のある寺院を飛鳥に置いておくままにはできない。そこで遷都の8年後に平城京へ移転することが試みられました。「佛法元興之場、聖教最初の地」という仏教の始まりの地としてふさわしい意味を込めて、新しく元興寺と名を変え、東大寺や興福寺に匹敵する大伽藍を持つことになりました。

奈良時代は全国に国分寺が創建されるなど仏教文化がさらに花開いた時期。元興寺も国家的に営まれる官寺となり、東大寺、興福寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺とともに南都七大寺に数えられ、大きな影響力を持つようになりました。

また、752年に行われた東大寺大仏開眼法要では、元興寺の僧隆尊が華厳経を講じて大仏開眼を祝し、平城京においても仏教発展に中心的役割を果たしていたことがわかります。

衰退し荒廃していく元興寺

やがて時代は流れて平安時代になると、律令制の崩壊とともに朝廷の力も衰えていきます。朝廷の保護を失った元興寺は衰退の一途を辿ることになりますが、さらに平安時代の後期ともなると、寺院を営むための荘園、寺領からの収入が困難になりました。あまりに窮乏したために、寺の宝物を売り払ってまで維持をしていくのに精一杯の状況が続きます。

やがて門や鐘楼は崩れ落ち、目を覆うばかりの荒れ果てた状況となっていきました。もはや廃寺も同然。しかしそれでも元興寺は法灯を絶やすことはありませんでした。なぜなら浄土信仰に根ざした民衆たちの支持があったためです。

奈良時代の僧智光は、浄土思想研究の第一人者でしたが、彼がかつて住んでいた僧坊の小部屋に智光曼荼羅が本尊として祀られ、「極楽房」と呼ばれるようになると、極楽往生を願う人々の注目を集めるようになりました。これが現在の国宝「極楽堂」の起こりとされていますね。

また中世以降は地蔵信仰も盛んとなり、ますます民衆信仰が元興寺を支えていくことになりました。しかし室町時代の土一揆では金堂を焼失し、戦国時代から江戸時代の初期には境内に家々が建てられ、その伽藍は見る影もなくなっていったのです。

わずかながら徳川幕府の保護も受けてはいたものの、明治時代初期の廃仏毀釈が追い打ちを掛けました。昭和初期まで無住職の荒れ寺として続きますが、戦後ようやく整備再建され、1998年にはユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一つとして登録されました。

実は二つあった飛鳥寺

平城京遷都後に移転した飛鳥寺のお話をしましたが、そっくりそのまま寺が移転したわけではありません。元々あった蘇我馬子が建立した寺も存続し、「本元興寺」と呼ばれるようになりました。

しかしに本元興寺に関する資料は乏しく、735年の斎会、748年の元正天皇の初七日の誦経の他、十五大寺の1つとして疫病や旱魃の終息祈願や、豊作の祈願などの記録がありますが、かつての壮麗な姿はなかったといいます。やはりそれまでのような手厚い保護がなされない状況では衰退もやむなしといったところでしょうか。

さらに平安時代には887年と1196年の火災によって伽藍が焼失し、室町時代以降は廃寺同然となりました。江戸時代に至ると飛鳥大仏すら野ざらしの状態になっていたといいます。

しかし1632年にある夫婦が小さい仏堂を寄進し、その後、香久山にあった寺の僧が飛鳥寺に隠居して、寺号を「安居院(あんごいん)」と改めて破損していた飛鳥大仏を補修しました。やがて江戸時代末期には民間人の手によって本堂が再建されるに至ったのです。

このように飛鳥寺は、移転した「元興寺」と、飛鳥に残った「本元興寺」の二つに分かれることになったわけですが、いずれも衰徴し廃寺寸前になってしまいます。しかし幾たびかの危機を乗り越え、こうして私たちが目の前で見ることができるのは、やはり後世の人々の努力の賜物なのかなと感じますね。

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
明石則実