室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる桶狭間の戦い!勝因は何?家康は何してた?特徴をわかりやすく解説

3. 桶狭間に突然の豪雨、そして誰もが予想しなかった今川の大敗

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織田方に囲まれた味方の大高城を救援し、織田との前哨戦にも勝利した今川義元は、本隊を大高城へ移動させるために動き出しました。その途中、休憩を取った場所が、桶狭間だったのです。

しかし、そこに突如として降り出した豪雨が、織田信長に味方します。信長の奇襲により、今川軍は大混乱に陥り、ついには総大将・義元が討ち取られることとなったのでした。

3-1. 突然の豪雨が桶狭間を襲う!天は信長に味方した

信長の出陣に意気を挙げた中嶋砦の前線にいた軍勢は、逸って今川勢に攻撃を仕掛けますが、逆に返り討ちにされてしまいます。徳川家康らによって丸根・鷲津の2つの砦も落とされており、今川勢の優勢は明白でした。

こうした前哨戦の勝利により、義元はかなり気をよくしたようです。そして5月19日の正午ごろ、桶狭間で休息を取ることにしました。兵力は5千ほどだったとも言われており、他の兵力は前哨戦などの各地に分散されていたようで、加えて兵糧を運ぶ兵などもいたため、実働はやはり5千ほどだったようなのです。

一方、信長の動きはと言うと、中嶋砦に入った際に、そこから東南の桶狭間に向かって義元の本隊が行軍していることを知ります。そしてすぐさま軍をそちらに向けたのです。

午後1時過ぎ、突然の豪雨が桶狭間一帯を襲いました。雹が降ったとも伝わっていますが、とにかく周りもろくに見えず、音も聞こえずの状態だったと考えられます。

この状況は織田軍に有利に働きました。行軍する人馬の音がかき消され、今川軍に知られることなく接近できたというわけです。

そして空が晴れた途端、信長は「突撃」と大音声で号令をかけたのでした。

3-2. 迂回した?正面から?奇襲の方法

信長が今川義元に対して奇襲をかけたことは事実ですが、このやり方については2つの説があります。ひとつは迂回しての奇襲、もう一つは正面きっての奇襲でした。

迂回作戦は、桶狭間に今川本隊がいることを知った信長が、山中を通って背後から奇襲をかけたというもの。かつてはこの説が主流で、なおかつ劇的な展開になることもあって広く信じられていましたが、今では懐疑的な意見もあります。

もう一つの正面奇襲は、前の項目で述べたとおりの展開です。豪雨で視界の利かないうちに接近した織田勢が正面から攻撃を仕掛け、驚いた今川勢が浮足立ち、総崩れになるというもの。これは最近有力視されている説です。

とはいっても、前哨戦などで負けた信長が、起死回生を狙って突撃したのがたまたま今川本隊だったという話なのだとも言われているんですよ。天候が最悪だったうえに、味方があちこちに分散されていたため、今川本隊は対応し切れなかったわけです。多くの要因が重なった上で、信長の大ばくちが本人の予想以上に大当たりしてしまったのでしょう。

3-3. まさかの事態!義元、討死す

信長は自ら槍を取り、「かかれ!」と叫びました。

いきなり目の前に現れた織田の軍勢に、今川本隊は大混乱に陥ります。敵味方入り乱れての大激戦が展開される中、義元は輿を捨てて騎馬で逃げ出しました。しかし織田方の追撃は厳しく、300騎がついには50騎にまで減ってしまいました。

そして、織田方の服部一忠(はっとりかずただ)という兵が義元に斬りかかります。文字通り彼が一番槍でしたが、義元も海道一の弓取りと称された豪傑。すかさず服部の膝に斬りつけて退けました。しかしそこに毛利良勝(もうりよしかつ)が飛びつきます。組み伏せられながらも義元は死に物狂いで暴れ、毛利の指を噛みちぎったとも。ただ、すでに戦いで消耗した彼にそれ以上の力は残されておらず、毛利によって、首を取られたのです。海道一の弓取りにしては、あまりにもあっけない最期でした。

まさかの大将討死という事態に、今川軍は総崩れとなります。多くの武将が討死を遂げ、桶狭間の戦いは信長の大勝利という、誰もが予想しなかった結末を迎えたのでした。

3-4. 義元が輿に乗っていた理由

ところで、今川義元については、輿を使っていたことから、太っていて馬に乗れなかったのだという説がまことしやかに伝わっていますが、これは義元の名誉のために否定したいと思います。というのも、輿を使用するというのは、足利将軍家から認めていたからこそできたことなんですよ。今川氏は足利将軍家に連なる高い家柄だったのです。また、戦場で輿に乗ることは、自らの権威を内外に示すためでもありました。地方の一豪族でしかない織田氏とは違うということを、義元は見せつけようとしていたのです。

また、お歯黒や薄化粧をしていたという話もありますが、後世の創作と言われることもあります。実際にそうであったとしても、それはやはり家柄の高さを物語る要素に過ぎません。

3-5. 桶狭間の戦いの後…今川氏の衰退

義元の首の行方ですが、鳴海城を守り続けて奮戦した家臣・岡部元信(おかべもとのぶ)により、開城と引き換えに今川氏に戻りました。元信は取り戻した義元の首を収めた棺を輿に乗せ、悠然と駿府へと帰還します。信長は彼の忠義に感動したと伝わっていますよ。

しかし、今川義元を失った今川氏は、ここから衰退の一途を辿ります。名軍師と呼ばれた太原雪斎はすでにこの世を去っており、義元の息子・氏真(うじざね)は武将としてはあまりに凡庸でした。義元に従っていた各地の豪族たちは次々と離反し、今川氏はやがて戦国大名としての滅亡を迎えることになります。

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