室町時代戦国時代日本の歴史

日本三大奇襲のひとつ「厳島の戦い」毛利元就が数倍の敵に勝利した理由とは?わかりやすく解説!

今回ご紹介する厳島(いつくしま)の戦いは、日本三大奇襲のひとつに数えられる決戦です。この戦いで大勝利を収めたのが、「三本の矢」の逸話でも良く知られた毛利元就(もうりもとなり)。数倍もの敵を相手に、どうやって元就は勝つことができたのでしょうか?わかりやすくご紹介したいと思います。

厳島の戦いで雌雄を決する2人の武将

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厳島の戦いは、厳島を舞台にした毛利元就陶晴賢(すえはるかた)の戦いです。元は同じ主君に仕えた両者ですが、様々な状況の変化により、対立することとなりました。ここでは、それぞれの武将と厳島の戦いに至る背景をご説明して行こうと思います。

厳島の戦いとは?

厳島の戦いは、天文24年10月1日(1555年10月16日)に安芸(広島県)の厳島で毛利元就と陶晴賢が雌雄を決した合戦です。厳島神社がある、あの厳島ですよ。

日本三大奇襲のひとつに数えられる厳島の戦いですが、その通り、元就の奇襲が勝敗を決めました。ちなみにあと2つの奇襲は、河越城(かわごえじょう)の戦いと、桶狭間の戦いです。桶狭間の戦いといえば、織田信長が今川義元を破ったジャイアントキリングとして有名ですよね。それに匹敵するほどの戦いでした。

厳島の戦いに至った背景

厳島の戦いで毛利元就と陶晴賢が激突することになったのは、それなりの理由がありました。

そもそもの発端は天文20(1551)年、大寧寺(たいねいじ)の変で、2人の主だった大内義隆(おおうちよしたか)が晴賢に討たれたことでした。主を殺して下剋上を達成した晴賢は、傀儡の当主を据えて大内家の実権を握ったのです。

元就は、大内家の力が弱体化したことに、勢力拡大のチャンスを見出します。元々独立できる機会があればそうしたいと思っていた彼ですから、次々と領地を広げていきました。

ただ、それに危機感を抱いた晴賢との間には軋轢が生じます。そして、晴賢に他勢力との戦に参加するように求められた元就は、これを拒絶し、両者の対立は決定的となったのでした。

陶晴賢とは?

まず、厳島の戦いの主人公のひとり・陶晴賢について簡単にご紹介しておきましょう。

大内家に仕えた譜代の家臣で、若かりし頃はたいへんな美少年だったそうです。そのため、主君・大内義隆から寵愛を受け、成長するとそのまま重臣となり、義隆の右腕として活躍しました。

しかし、義隆が息子を失ったショックから戦に興味を失い、公家と和歌や蹴鞠などに興じるようになると失望し、ついには義隆を討つことを決断したのです。そして起きたのが、大寧寺の変でした。

毛利元就とは?

毛利元就は、後に中国地方に覇を唱えるとはいえ、この頃はまだ地方の一豪族に過ぎませんでした。兄の死後に家督争いを経て当主となった彼は、策略に優れた武将で、後も様々な策でピンチを打開していくこととなります。

大内義隆に従い各地の戦いに参加していた彼ですが、やがて陶晴賢が義隆を殺害して実権を握ると、勢力を拡大しようと動き出しました。ただ、その動きを懸念した晴賢との間に対立が生じていったわけです。

厳島の戦いの後、元就は優秀な3人の息子(毛利隆元/もうりたかもと・吉川元春/きっかわもとはる・小早川隆景/こばやかわたかかげ)らと共に中国地方の雄として存在感を発揮していくこととなります。

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