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戦国最強の軍師10選!一番すごいのは誰?秀吉に仕えたのは?一挙紹介

戦国時代には、有力な武将には必ずと言っていいほど軍師的な存在がついていました。戦略はもちろん、和睦や寝返りの交渉を行ったり、時には内政にまで力を発揮したりする者もいたのです。まさにオールマイティーな活躍をした戦国時代の軍師の中から、最強と評される代表的な10人をご紹介したいと思います。きっとファンになってしまう個性豊かな面々ですよ。

1. 戦国最強の軍師といえばやはりこの人!黒田官兵衛

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大河ドラマなどの影響もあり、黒田官兵衛(くろだかんべえ)こそ戦国最強軍師としていちばん有名かもしれません。正式な名前は孝高(よしたか)で、出家後の号が如水(じょすい)、そして通称が官兵衛です。

戦国時代において軍師と呼ばれた武将の中で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた経験を持つ彼についてご紹介しましょう。

1-1. 10倍の敵を退けた名軍師

黒田官兵衛は、播磨(はりま/兵庫県南西部)の小寺(こでら)氏に仕えて家老となり、その後織田信長の傘下に入りました。そこでは10倍の兵力を退けたり、敵方の武将を調略ちょうりゃく/政治工作をして味方に引き入れること)したりなど、信長にとっても「使える」存在となっていきます。

その後、中国地方の征伐に当たった豊臣秀吉の下に付けられると、軍師として秀吉に様々な策を授け、勝利に貢献しました。

1-2. 天下取りの野心があったかもしれない?

信長が本能寺の変で倒れると、秀吉はすぐさま取って返し、その速さから「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」として後世にまで語り継がれることとなりました。

この裏側では、毛利と和睦してすぐに明智光秀を討つようにと官兵衛が進言したと言われています。

ただこの一方で、官兵衛には隙あらば天下を取ろうという考えがあったとも言われており、「官兵衛がその気になれば天下を取れる」と秀吉が言っていたという話があるんですよ。というのも、信長が討たれて狼狽した秀吉に対し、「これでご運が開けましたな」と不敵に言い放ったという逸話があり、秀吉はこれで官兵衛を恐ろしく感じたというんです。

1-3. 家康を殺すチャンスだったのに…!と息子を叱る

秀吉の死の直後、官兵衛は「いずれ戦が起きる」と予想していました。そしてその通りに関ヶ原の戦いが起きると、官兵衛は徳川家康の東軍に付き、九州で西軍の勢力と戦い、息子の長政(ながまさ)は関ヶ原本戦で大活躍をおさめます。

しかし、長政が、家康と対面して直々に労をねぎらわれたことを報告してくると、官兵衛は息子に「その時(家康に対面した時)、お前の左手はいったい何をしていたのだ?」と言ったとか。つまり、「家康を殺す絶好のチャンスだったではないか!」と息子を叱ったというわけです。

また、「関ヶ原の戦いがもう少し長引けば、中国地方に攻め込んでやるつもりだったのに」という手紙も残されており、官兵衛がただの軍師ではなく、並々ならぬ野心を燃やしていたことがわかりますね。

 

多くの武将と交流を持ち、信長・秀吉・家康という三人の大物に上手に仕えた官兵衛。天下をうかがうこともできたという点では、戦国時代の最強軍師と呼んでもいいと思います。

2. 官兵衛と並ぶ「両兵衛」:天才軍師・竹中半兵衛

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黒田官兵衛だけでなく、豊臣秀吉を支えたもうひとりの軍師が、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)です。二人の軍師は、「両兵衛(りょうべえ)」としてその名を戦国時代に残しました。

官兵衛とは対照的に、半兵衛は物静かで、女性のような風貌の男だったそうです。では、彼の人生をご紹介しましょう。

2-1. 無能な主君に物申すため、城を乗っ取る

秀吉に仕える前、半兵衛は美濃(みの/岐阜県南部)を支配する斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えていました。しかし、龍興は政務に力を入れず遊んでばかりで、お気に入りの家臣の言う事しか聞かないという主君でした。まともな家臣は遠ざけられ、半兵衛もその中に含まれていたのです。

このため、半兵衛はある日、城中の弟を見舞うという名目で城にやって来ました。実は荷物の中に武器が隠してあり、半兵衛はそれを使いたった16人で城を乗っ取ってしまいます。実に鮮やかな乗っ取り劇でした。

2-2. 三顧の礼で秀吉に迎えられる

城を乗っ取ったものの、半兵衛にはそれ以上どうこうする気はなく、斎藤家が没落すると同時に隠棲してしまいます。

そこへ、半兵衛の評判を聞きつけた織田信長が「ぜひとも家臣にしたいから連れてこい」と豊臣秀吉を派遣してきました。しかし、半兵衛は秀吉の人柄に惚れ込んでしまったようで、「信長さまでなく、あなた(秀吉)になら仕えたい」として、そのまま秀吉の家臣となったのです。

これは天才軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)を迎えるために劉備(りゅうび)が何度も訪れたという中国の三国志に出てくる「三顧の礼(さんこのれい)」をモデルにしてできた話だと言われていますね。

2-3. 官兵衛の息子を助ける

秀吉の軍師だった黒田官兵衛とは友人関係だった半兵衛ですが、官兵衛が敵将を説得に向かい、そのまま捕らえられてしまうという事態が起きました。

官兵衛が戻らないことを裏切りとみなした信長は「官兵衛の息子を殺せ!」との命令を下しますが、半兵衛は官兵衛の息子を救い出し、ニセの首を信長に差し出し、親友の息子を守り通したのです。

官兵衛は深く感謝し、以後、黒田家と竹中家は強い絆で結ばれることとなりました。

しかし、半兵衛は身体が丈夫ではなく、三木合戦(みきかっせん)が行われた際に兵糧攻めを進言した後、病を得て陣中で亡くなってしまったのでした。36歳でした。

若くして亡くなった半兵衛が長生きしていたら、どのように活躍したかが気になります。ただ、早逝したからこそその存在感が際立ったとも言えますし、最強軍師と呼ばれることも多いのかもしれません。ただ、野心のない彼の鮮やかな作戦をもっと見てみたかったなと思います。

3. 戦国最強のお坊さん軍師・太源雪斎

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軍師が必ず武将であるということはなく、多くの僧侶は外交などに活躍していました。その中でも、今川義元(いまがわよしもと)の参謀として今川の全盛時代を支えたのが、「黒衣の宰相」と呼ばれた太源雪斎(たいげんせっさい)です。僧でありながら、戦にも長じていた彼の生涯をご紹介しますね。

3-1. 今川義元の教育係となる

今川氏の重臣の家に生まれた雪斎は早くに出家して僧侶となり、京都で修行を積み、今川家から義元の教育係を頼まれました。義元は五男だったため家督を継ぐ見込みはなく、幼少時に寺に入ることが決まっていたのです。

しかし、義元の父が亡くなり、あとを継いだ兄たちも相次いで死去すると、残された弟たちと家臣の間で家督争いが勃発してしまいました。

3-2. 義元を当主の座に就け、補佐役をつとめる

この争いは、「花倉の乱(はなくらのらん)」と呼ばれましたが、雪斎は自ら戦いに身を投じ、義元を支え、ついに勝利を収めて彼に当主の座をもたらします。僧侶でありながら、彼は戦にもしばしば参戦して勝利を収めているんですよ。すごいお坊さんですよね。

苦難を共に切り抜けたことで、義元の雪斎への信頼は深まり、今川家における内政と軍事の両面が彼に任され、文字通り彼は今川の屋台骨となったのでした。

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