室町時代戦国時代日本の歴史

祖父や父ほどの才能に恵まれなかった「斎藤龍興」の悲哀の生涯をわかりやすく解説

偉大な肉親を持つと、とかく才能を比べられてしまいがち。斎藤龍興(さいとうたつおき)は、「美濃のマムシ」と呼ばれた祖父・斎藤道三(さいとうどうさん)や、支配基盤を整備した父・斎藤義龍(さいとうよしたつ)などとは異なり、国を奪われ、城を追い出されてしまいました。ただ、彼は城を追われてからは武将としての気概を発揮し、織田信長に対して抵抗を続けていきます。彼の生涯がいったいどんなものだったのか、ご紹介しましょう。

「美濃のマムシ」を祖父に持つも、想定外に早く家督を継ぐことになる

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斎藤龍興は、祖父が斎藤道三、父が斎藤義龍という、戦国武将の一族に生まれました。祖父は下剋上を果たして国を手に入れ、父は政権基盤を整備するという、どちらも有能な武将でした。しかし、父・義龍が予想外に早く亡くなってしまい、まだ少年の龍興に家督を背負うという重責がのしかかることとなったのです。

祖父は「美濃のマムシ」

天文17(1548)年、龍興は斎藤義龍の子として生まれました。

まずは、彼の偉大なる祖父と父について説明しておかなくてはいけません。

祖父・斎藤道三は、その父と2代に渡って美濃(岐阜県)の国盗りを成し遂げた傑物です。龍興の曽祖父の時に一介の油売りから武家に仕えるようになり、道三の時には後に美濃守護(美濃の事実上の支配者)となる土岐頼芸(ときよりなり/よりあき)に取り入って側近となると、やがて頼芸を追いやって下剋上を果たし、美濃を手に入れました。

のし上がっていく間には標的の殺害もいとわなかった道三は、「美濃のマムシ」として近隣に恐れられたと言われています。

ただ、道三は晩年に息子・義龍と対立し、弘治2(1556)年の長良川(ながらがわ)の戦いで敗れ、討死してしまいました。

内政に力を入れ、足場を固めた父

道三を破った義龍は、龍興の父。優秀でしたがなぜか道三に疎まれ、将来に危険を感じて挙兵し、父を破りました。俗説ですが、道三の実の子ではなかったという話もあります。

道三の時代には戦続きで国内の整備がおろそかにされていたため、内政に力を入れて基盤を固めました。

そして、道三の娘婿となっていた織田信長や近江(滋賀県)の浅井氏などと対抗していきますが、永禄4(1561)年、志半ばにして突然の死を遂げてしまいます。33歳の若さでした。

このため、14歳の龍興は急きょ跡を継ぐことになったのです。

父の急逝で家督を継いだが、前途多難な船出となる

父が33歳という若さで亡くなったことは、おそらく誰にとっても青天の霹靂だったはず。そして、きっと誰も龍興への家督継承のための準備など、気をまわしていなかったと考えてもいいと思います。龍興自身も、跡継ぎとしての心構えなどを叩き込まれないうちに、あれよあれよと当主の座に就けられてしまったのでした。

しかし、周りには織田や浅井など強力な武将がひしめき合っており、船出としては前途多難としか言いようがありませんでした。

そして、龍興の家督継承を待っていたかのように、織田信長はすぐに攻勢をかけてきたのです。

強大な敵・織田信長と対峙しなくてはならなかった龍興

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父・義龍が亡くなったことを聞きつけた織田信長がすぐさま美濃に攻め込んできたため、ろくに戦の経験もない龍興は苦境に立たされました。しかし、堅城・稲葉山城を居城とし、名軍師・竹中半兵衛(たけなかはんべえ)がいたことで、龍興は信長を退けます。しかし、父を早くに失った龍興は、当主としての心構えをわきまえていませんでした。お気に入りの側近ばかりを重用し、若いのに酒色におぼれていくようになるのです。

父の死の直後、織田信長が攻め込んでくる

父・義龍の死からわずか2,3日で、織田信長の軍勢は美濃に侵攻してきました。14歳の龍興に軍を指揮することなど無理ですから、重臣たちが迎え撃ちます。しかし、重臣の長井衛安(ながいもりやす)日比野清実(ひびのきよざね)らが命を落としてしまい、信長は龍興の居城・稲葉山城(いなばやまじょう/後の岐阜城/岐阜県岐阜市)まで攻め込んで来たのです。

しかし、稲葉山城は山の上に築かれた難攻不落の城でした。そのため、信長は攻めきれずに撤退し、龍興は辛くも難を逃れることができたのです。

名軍師・竹中半兵衛の活躍

とはいえ、信長がこれで引くはずもありませんでした。

永禄6(1563)年、信長と龍興の軍勢は再び激突し、新加納(しんかのう)の戦いが起きたのです。

織田軍は5,700、龍興率いる斎藤軍は3,500と、数的には斎藤軍が圧倒的に不利でした。しかし、斎藤軍には竹中半兵衛という名軍師がいたのです。半兵衛の伏兵の策によって戦いは有利に展開され、信長はまたしても退却を余儀なくされました。

このように、名軍師を抱えていた龍興ですから、しっかりしてくれるはず…と思いきや、そうではありませんでした。とても、半兵衛を使いこなすような器には成長していなかったのです。

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