室町時代戦国時代日本の歴史

秀吉が恐れた天才軍師「黒田官兵衛」の生涯をわかりやすく解説

黒田官兵衛(くろだ かんべえ)は、少し前にNHK大河ドラマで岡田准一さんの主演でドラマ化されていたのを覚えている方も多いと思います。この黒田官兵衛は、最初の主である織田信長、長く仕えた豊臣秀吉、そして徳川家康に仕えて、天才軍師としての名を馳せました。この黒田家を築いた黒田官兵衛についてご説明します。

黒田官兵衛の生い立ち

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黒田官兵衛は、いろいろな名前を持っています。元々、実名でも黒田祐隆(すけたか)から始まり、孝隆(よしたか)、孝高(よしたか)と変わっているのです。若いころには、小寺姓も名乗っていました。黒田官兵衛は通称ですが、一般には一番知られています。そして、秀吉から警戒されているとわかると、剃髪(頭を剃ること)して黒田如水と名乗っていたのです。

元々、黒田官兵衛の一族は、滋賀県の賤ヶ岳山麓に居たと言われていますが、詳しいことはわかっていません。祖父黒田重隆が、備前国(びぜんのくに、今の岡山県)から播磨国(はりまのくに)に入り、この地域で勢力を持つ大名小寺政職(こでらまさもと)に仕えて、姫路城代に任じられています。その時に、小寺政職が自分の養女を官兵衛の父黒田職隆(もとたか)に嫁がせ、一時は小寺姓を名乗った時期もあったのです。

そして、黒田職隆の長男として1546年に生まれた黒田官兵衛は、小寺政職に仕えるようになります。

黒田官兵衛と秀吉との出会い_小寺政職の家臣から織田家家臣へ

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黒田官兵衛は、1575年頃には30歳前の若さで小寺家の家老になっていました。その当時の、播磨は、西からは毛利家の配下、東からは織田勢が進出して勢力を競っており、小寺家はどちらにつくか城内でも意見が分かれていたのです。黒田官兵衛は、既に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田信長の力を評価して、小寺政職に織田方につくことを進言し、羽柴秀吉の取次によって信長に謁見します。これが、織田信長、長きにわたり使える秀吉との最初の出会いでした。

竹中半兵衛とともに秀吉の参謀となる

1576年には、毛利方の攻撃が強くなりますが、黒田官兵衛は、それを退けて自身の力を示すとともに、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として織田信長に差し出し、実質的に信長の家臣になります。同時に、播磨に進出してきた秀吉に対して姫路城の本丸を提供して、秀吉の参謀的な役割を担うようになるのです。

黒田官兵衛は、秀吉の参謀として、竹中半兵衛とともに中国攻略に携わり、宇喜多直家の説得に成功して、秀吉軍は中国の毛利家との攻防で有利な立場になります。

荒木村重によって有岡城に幽閉された黒田官兵衛

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織田信長の勢いはさらに拡大していきますが、謀反が起こります。摂津(せっつ、今の大阪府北部)の国を任されていた荒木村重が毛利方と通じて謀反を起こし、有岡城に立てこもったのです。この際に、黒田官兵衛は、旧友であった村重の説得のために有岡城に乗り込みましたが、説得に失敗し、ジメジメとした城の土牢に幽閉されてしまいます。

竹中半兵衛の機転によって救われた黒田官兵衛の長男長政

黒田官兵衛が戻ってこないため、織田信長は激怒し、羽柴秀吉に彼の元に人質として預けられていた官兵衛の長男松寿丸を殺すように命じます。しかし、竹中半兵衛が機転を利かせて松寿丸を隠して、信長には殺害したと報告したのです。そして、1年後に、荒木村重は城を抜け出し、織田信長は有岡城を攻め滅ぼします。その際に城の土牢に幽閉されていた黒田官兵衛も救い出されました。信長はバツが悪くなりますが、そこに竹中半兵衛が松寿丸を連れて現れ、黒田官兵衛は織田家への忠誠を誓ったのです。この松寿丸は、のちに黒田長政として、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、勇猛な武将として成長し、関ヶ原の合戦後にはその武勇によって福岡藩主になりました。

また、黒田官兵衛は、この土牢に幽閉されていたために、左足が曲がらなくなり、生涯杖をついて足を引きずるようになります。それでも軍師としての役割は余計に集中して行うようになり、軍師としての名を高めたのです。

秀吉の軍師として存在感を増す黒田官兵衛

黒田官兵衛は、その後も竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として中国攻略に参加し、その存在感を高めていきます。その間に、竹中半兵衛は若くして病死してしまい、軍師としての官兵衛は秀吉にとってなくてはならないものとなっていくのです。

中国備中高松城からの大返しと黒田官兵衛

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その羽柴秀吉と黒田官兵衛が、清水宗治のこもる備中高松城を水攻めにしていた時に、事件が起きます。すなわち、織田信長が、謀反を起こした明智光秀に討たれるという本能寺の変が起こったのです。信長を討った明智光秀は、各地に自分に味方するように使者を各地に差し向けます。当然、毛利家にも使者が送られましたが、その使者は備中高松城を囲んでいた羽柴秀吉の配下に偶然つかまってしまったのです。秀吉は、主であり、自分を引き上げてくれた織田信長の死去にショックを受け、何も考えられなくなりますが、その秀吉に囁いたのが黒田官兵衛でした。

官兵衛は、「今はまだ、毛利家中も信長が亡くなったことを知らないため、和議を結んで、この軍勢を率いて京都の明智光秀を討てば、天下人になれる」と秀吉に囁いたのです。ショックに打ちのめされていた秀吉でしたが、その言葉を聞いて我に帰り、官兵衛と蜂須賀小六に毛利方の城主清水宗治と軍師安国寺恵瓊と即座に交渉を支持したと言われています。彼らは、清水宗治の切腹と引き換えに軍を引くことを毛利方に提案し、織田信長が打たれたことを知らない毛利方は受け入れました。秀吉軍は宗治の切腹を見届けると、一気呵成(いっきかせい)に京都に向けて引き返したのです。

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